バイブル・エッセイ(837)聖霊と火の洗礼

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聖霊と火の洗礼

 民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。(ルカ3:15-16、21-22)

 洗礼者ヨハネは、キリストがやって来たなら「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と言います。自分は水によって罪を清め、人々を神に立ち返らせるが、キリストは、それだけでなく、聖霊の恵みによって人々の心を燃え上がらせるということでしょう。
 では、聖霊の恵みとはいったいなんでしょうか。主の洗礼の場面を読むと、聖霊が鳩のような姿で下り、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえたとあります。天から聞こえたこの声こそ、聖霊の恵みの核心だと言っていいでしょう。聖霊が降るとき、わたしたちの心に天からの声が響き、「わたしは神から愛されている。わたしの人生には意味がある」と心の底から確信できるのです。神様の愛が、わたしたちの心の奥深くに刻印されると言ってもいいでしょう。この愛の刻印が押されるとき、わたしたちの心は喜びであふれます。生まれてきたことへの感謝と喜び、生きていることの感謝と喜び、すべての罪がゆるされたことへの感謝と喜びで心が満たされるのです。心に、喜びの炎が燃え上がると言ってもいいでしょう。それが、「聖霊と火」による洗礼という言葉の意味だろうと思います。
 わたしたちも、この恵みを受けています。洗礼を受けたとき、わたしたち一人ひとりの上に聖霊が降り、わたしたちの心に「わたしは神から愛されている」という確信が、深く刻印されたのです。幼児洗礼の場合は覚えていないかもしれませんし、成人洗礼でも記憶がぼんやりしているという人もいるかもしれませんが、わたしたちの心に言葉を越えた言葉、聖霊の力によって神の愛の刻印がしっかり押されたことには間違いがありません。祈りの中で心の声に耳を傾けるなら、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が心の奥底から響いてくるのを必ず聞くことができるのです。その声を聞くたびごとに、わたしたちの心は喜びで燃え上がることでしょう。
 日々、この声に耳を傾けたいと思います。洗礼を受けていても、そのことをすっかり忘れ、神の愛に背を向けて生きるなら、せっかくの恵みを無駄にすることになりかねません。洗礼の恵みは、その恵みを本人がしっかり受け止めて感謝することで、初めて生きる力になるのです。朝ごとに、夕ごとに、神様から愛されている喜びをしっかりかみしめましょう。そして、「神様、わたしは、何をしたらよいのでしょうか」と祈りの中で問いかけましょう。そうすることで、わたしたちは神様の心に適う者として、喜びにあふれた日々を生きることができるのです。