バイブル・エッセイ(458)『すべてを委ねる』


『すべてを委ねる』
 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。(マルコ4:35-41)
 突風と大波を恐れ、取り乱している弟子たちを、イエスは「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」とたしなめます。イエスを信頼し、イエスにすべてを委ねているならば、何も恐れるものはないはずだからです。恐れるということは、まだ何か委ねきれていないもの、しがみついているものがあるということなのです。
 イエスと弟子たちの乗った小舟を、わたしたちの人生と考えてもいいでしょう。わたしたちの人生は、何時やむかも分からない嵐の中で、波に翻弄され続ける小舟のようなものです。病気や事故、自分自身や家族の弱さ、同僚や友人からの思いがけない悪意や妬みなど、自分の力ではどうしょうもない荒波が、つぎつぎと押し寄せてきてわたしたちの小舟をゆらします。その中でわたしたちはつい取り乱し、弟子たちと同じように、「神さま、なぜわたしを助けてくれないのですか」と不満を言ってしまいがちです。
 ですが、主はわたしたちの理解をはるかに越えた大きな計画を持っておられます。全人類を、一人残らず救うための計画です。人間たちが引き起こす愚かな争いや悲劇をすべて解決し、人類を一人も残さず救おうと、神は全力で働いておられるのです。取るに足りない主のしもべであるわたしたちは、ただ主を信じて、すべてを主に委ねるしかありません。旅を続けることが主の御旨であれば小舟は助かるでしょうし、そうでないなら舟は沈むでしよう。小舟が助かっても沈んでも、それはどちらでもよいことです。大切なのは、どちらにしても、主が一番いいようにして下さると信じて、すべてを主の手に委ねることなのです。
 小舟の旅が順風満帆であるに越したことはありませんが、それで思い上って神の御旨から離れるならば、遅かれ早かれその人は不幸になるでしょう。この世界での成功にしがみつく人は、神の愛から離れてしまいがちなのです。神の愛を失ってしまえば、たとえ全世界を手に入れたとしても何の意味もありません。逆に、たとえ嵐に揉まれていたとしても、そのためにイエスとの距離が縮まるなら、それは幸せだと言っていいでしょう。どんな逆境の中にあったとしても、すべてを神の手に委ね、神の愛の中に生きている人は、順境の中で神の愛を見失ってしまった人よりもはるかに幸せなのです。
 舟が沈むことを恐れる必要はまったくありません。どんなに心配したところで、遅かれ早かれわたしたちの人生という舟は死の淵に沈むのです。ですが、死から蘇られたキリストは、わたしたちを必ず死の淵から引き上げて下さいます。風や波を従えるキリストは、死さえも従わせる力を持っておられるのです。洗礼によってキリストと共に死に、永遠の命に引き上げられたわたしたちは、死など恐れる必要がないということを確かに知っているはずです。アッシジのフランシスコは、死に対して「わたしたちの姉妹である死よ」と呼びかけました。死は、結局のところ天国に入るために通る入り口に過ぎず、何も恐れる必要などないのです。
 波や風だけでなく、死さえもすべて主の手の中にあります。わたしたちは、何も恐れず、すべてを主の手にお委ねすればいいのです。あとは、主がすべてを一番よくしてくださいます。主を信じ、嵐の湖を進んでゆく勇気を願いましょう。