バイブル・エッセイ(1131)輝いて生きる

輝いて生きる

 六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。(マルコ9:2-10)

「イエスの姿が目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」とマルコ福音書は記しています。高い山に登って祈り、これから自分に起こること、迫害も十字架も含めてすべてのことを神の手に委ねたとき、イエスの全身がまばゆい光を放ち始めた。そのように考えていいでしょう。

 イエスだけでなく、わたしたち人間は誰でも、神の手に自分のすべてを委ねたとき輝くようにできています。全身からかもしだされる喜びや安らぎが、おだやかな光となってわたしたちを輝かせるのです。もし輝かないとすれば、それはまだ神の手にすべてを委ねきっていないから。「ああなったらどうしよう、こうなったら困る」と将来のことを心配したり、「あの人だけは絶対にゆるせない」などと我をはったりしているからでしょう。

 このところ、教会のあちこちで、将来への不安の声が聞こえてきます。信徒の高齢化と若者の教会離れ、司祭、修道女の減少、宗教そのものに対する社会の態度の変化など、客観的に見て教会の直面している状況が厳しいのは事実だといってよいでしょう。しかし、だからといって不安や恐れを感じる必要はまったくありません。なぜなら、神がわたしたちと共にいてくださるからです。イエスが、迫りくる迫害や十字架上での死を予見しながら少しも恐れなかったのと同じように、わたしたちも、厳しい状況を現実として受け止めつつ、何も恐れずに進んで行けばいいのです。神の手にすべてを委ね、いま自分たちがすべきことを誠実に成し遂げてゆきさえすれば、道は必ず開かれる。神が、すべてを一番よいようにしてくださる。それが、わたしたちの信仰なのです。

 「ああなったらどうしよう、こうなったら困る」と暗い顔をして嘆いている暇などありません。なぜなら、わたしたちにはまだできること、いますべきことが山ほどあるからです。たとえば、高齢や病気のため教会に来られない人が増えていく中で、どうやってその人たちとつながり続けるか。その人たちも含めて一つの教会として進んでいくにはどうしたらいいか。自分自身もやがて教会に来られなくなる日がくるという現実を直視しつつ、いまこそこの課題に真剣に取り組む必要があると思います。教会の外でも、一人暮らしの高齢者、あるいは経済的に困窮した家族やその子どもたち、地震など自然災害で被害を受けた人たちなど、助けを必要としている人たちがたくさんいます。その人たちに助けの手を差し伸べ、神の愛を届けることも、わたしたちの大切な使命です。そのように考えていると、将来のことを嘆いている暇などまったくありません。わたしたちにはまだできること、いますべきことが山ほどあるのです。

 将来のことをすべて神の手に委ね、神から与えられた使命を精いっぱいに果たすとき、わたしたちは輝き始めます。教会も輝き始めます。その輝きは人々の心を照らし、神のもとに引き寄せるでしょう。わたしたちが輝いている限り、心配すべきことなどなにもありません。イエスと共に、日々を輝いて生きられるよう、心を合わせて祈りましょう。

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