バイブル・エッセイ(459)よろこんで生き、よろこんで死ぬ


『よろこんで生き、よろこんで死ぬ』
 会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。(マルコ5:35-42)
 先輩の神父から、こんな話を聞いたことがあります。あるとき、一人のご婦人が思いつめた様子で教会に相談にやって来たそうです。神父が話しを聞くと、そのご婦人は子どもを突然の交通事故で亡くしたばかりとのこと。胸を引き裂かれるほどの深い悲しみの中で、わらにもすがる気持ちで友人に勧められた聖書を読んでゆくうちに、今日のこの箇所と出会ったというご婦人は、涙をぼろぼろと流しながら神父に向かって言いました。キリスト教を信じれば、死んだ子どもが蘇ることがあるのでしょうか。わたしは、せめて一目だけでもあの子に会いたいのです。」神父は、その話を聞いて、ただご婦人と一緒に泣くことしかできなかったとのことでした。
 残念ながら、教会に来ても死んだ子どもが蘇ることはありません。では、この奇跡の話にいったい何の意味があるのでしょう。イエスは会堂長に向かって、「恐れることはない。ただ信じなさい」と言いました。わたしたちが注目すべきなのは、奇跡ではなくイエスのこの言葉だと思います。わたしたちは、死を恐れる必要がありません。生きるにしても死ぬにしても、すべては神の御手の中にあり、神がすべてを一番よくしてくださるからです。だから、生きるべきときにはよろこんで生きればいいし、死ぬときにはよろんこんで死ねばいい。それが、この奇跡を通してイエス・キリストが一番伝えたかったことなのだと思います。
 イエスが「子どもは死んだのではない。眠っているだけだ」と言ったことにも、深い意味があると思います。イエスだって、子どもが生きているか死んでいるかくらいは当然わかったはずです。ですが、それにもかかわらず、あえて「眠っているだけだ」と言いました。つまり、神の前で、死とは眠りのようなものに過ぎないということです。死んだ人も、神が望めば眠りから目を覚ますように蘇るのです。だから、死など恐れるに値しないということを人々に伝えるために、イエスはあえて子どもは「眠っているだけだ」と言ったのだと思います。
 子どもが蘇ったことばかりに目を向け、このメッセージを見失ってはいけないと思います。蘇った子どもも、またいずれは死にますし、親より先に死ぬことだってあるかもしれないからです。そのときに「神様、なぜ今度は子どもを蘇らせて下さらないのですか」と呪うなら、それはまったく見当はずれです。もし子どもが死んで蘇らないなら、それは神様がお召しになったからなのです。
 子どもがなぜ生まれて来たのかを知らないように、子どもがなぜ死んだのかもわたしたちは知りません。ですが、神様はすべてを知り、すべてを一番よいようにして下さいます。わたしたちにできるのは、ただ神様の愛を信じ、生も死も神様の手にお委ねすることだけなのです。そのことをしっかりと胸に刻み、生きるべきときにはよろこんで生き、死ぬときにはよろこんで死ねる信仰を身に着けたいと思います。