バイブル・エッセイ(463)パンを差し出す


パンを差し出す
 弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。(ヨハネ6:8-13)
 5つのパンと2匹の魚がイエスの手の中で増やされ、5000人もの人々が満腹したという奇跡の物語が読まれました。この物語には、キリスト教の大切な秘密が隠されているように思います。わずかな物しか持たず、神から与えられた使命を果たす力がないように思えたとしても、わたしたちは何も心配する必要がないのです。自分に与えられたものをすべてイエスに差し出すなら、あとのことはイエスがして下さるのです。
 パンや持ち物だけに限りません。わたしたちの人生そのものが人々と分かち合われるべき捧げものだと言っていいでしょう。先日、幼稚園の「夏の夕べ」でこんなことがありました。「アンパンマン音頭」を子どもたちと一緒に踊っていたら、子どもからから「神父さんもアンパンマンみたい」と言われたのです。それは、きっとわたしの顔が丸いからでしょう。でも、確かにアンパンマンと神父の共通点はあるように思います。アンパンマンは、泣いている子どもたちに自分の顔を裂いて与えるヒーローです。超能力ですごいことをして人を助けるヒーローではなく、自分自身を差し出すことによって人を助けるヒーローなのです。その意味では、神父もアンパンマンであるべきでしょう。神父には、自分の人生そのものをパンとして裂き、与えることによって人々の魂の飢えを癒す使命が与えられているのです。
 神父だけではなく、すべての信徒に同じことが言えると思います。わたしたちの人生そのものがパンであり、魚なのです。弟子たちは「5つのパンと2匹の魚しかありません。こんなもので何ができるでしょうか」と初めから諦めていましたが、イエスはそれで十分だと言い、神に感謝の祈りを捧げました。「わたしには大したことができない。わたしが何かをしたところで無意味だ」と考える必要はないのです。わたしたちがありのままの自分を差し出せば、イエスは感謝してわたしたちを神に捧げて下さいます。そして、イエスの手の中でわたしたちの人生が裂かれ、人々に与えられるとき、わたしたちの人生は想像を超えるほど大きな力を発揮することができるのです。
 教会全体についても同じことが言えるでしょう。いま、教会は高齢化が進んで若者たちの姿が少なくなっています。「もうあれもできない、これも無理だ」ということが増えているように思います。ですが、それで諦める必要はまったくないのです。自分たちに残っているものをすべてイエスに差し出すならば、イエスはわたしたちを使ってたくさんの人々の心に神の愛を届けて下さるに違いありません。大切なのは、信頼して差し出すことなのです。
 自分の人生というパンを、バスケットの中に入れたままにしていてはいけません。「こんなわたしは何もできないから、自分のことだけを考えてつつましく生きよう」ということではいけないのです。自分の人生を、そのような思い込みのバスケットから出す必要があります。エスの手の中で、自由に使って頂くときにこそ、わたしたちは自分の本来の力を発揮することができるのです。バスケットの中にいては想像もできないくらいたくさんのことを、わたしたちは出来るのです。福音宣教の使命を果たすため、自分自身をバスケットから取り出し、主の手に捧げることができるように祈りましょう。