バイブル・エッセイ(397)『イエスだと分かる』


『イエスだと分かる』
 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。(ルカ24:28-35)
 イエスが「パンを取り、讃美の祈りを唱え、パンを裂いて」弟子たちに渡したとき、弟子たちの目が開け、イエスだと分かったと福音書は伝えています。これは、本当に不思議なことです。イエスがどれだけ聖書について、ご自分について語っても、弟子たちは話しているのがイエス本人だと分からなかったというのです。そして、イエスが祈り、パンを分かち合ったとき、ようやく自分たちが話していたのがイエスだったと気づいたというのです。この出来事は、わたしたちにとても大切なことを教えてくれているように思います。それは、聖書についてどれだけ雄弁に語ったとしても、言葉だけでは復活したイエスを伝えられないということです。人々は、私たちが実際に祈り、分かち合う姿を見るとき、わたしたちの中にイエスが生きていることに気づくのです。
 例えば、先日の乙女峠祭りの中でこんなことがありました。「浦上四番崩れ」と呼ばれる大迫害で長崎から津和野に流された信徒の一人で、数々の拷問や責め苦の中で仲間の信仰を支えた高木仙衛門の子孫の方々が、立派な十字架や記念碑を建てて下さったことで表彰されたのです。高木仙衛門の信仰が、子孫の中にしっかりと息づいているという話はそれまでにも聞いたことがありましたが、「まあ、そんなこともあるだろう」くらいにしか思っていませんでした。ですが、実際にその人たちがすべての人々の救いのために少なからぬ私財を差出したと聞き、表彰を受ける彼らのすがすがしい笑顔を見たとき、わたしは彼らの中にイエスが生きていることをはっきりと確信したのです。彼らが祈りの中で分かち合う姿を見たとき、わたしの目が開かれたのです。
 また、同じ日にこんなこともありました。乙女峠祭りから帰って来て、すぐに宇部教会ではお通夜があり、故人を長年にわたってお世話してこられた三喜田神父が司式されました。88歳という高齢で山道を歩き、バスで長旅をして疲れ果てているはずの三喜田神父が、限りある体力を惜しみなく差出し、司祭としての務めを果たす姿を見たとき、わたしは三喜田神父の中にイエスが生きておられることにはっきりと気づきました。祈りの中で、自分に与えられたものすべてを差し出して分かち合う姿の中に、はっきりとイエスを見たのです。
 初代教会でも、イエスを信じる人々が集まって感謝の祈りを捧げ、すべてを惜しみなく分かち合いながら生きている姿を見てたくさんの人々が信仰の道に加わったと言われています。言葉で語ったことを、祈り、分かち合う姿によって証する。イエスが生きておられることを、わたしたち自身の生き方によって証する。それこそが福音宣教の原点なのでしょう。どんなにいい話を聞いても、それだけでは不十分なのです。共に祈り、喜んで分かち合うわたしたちの姿を見るとき、わたしたちの中に生きているイエスと出会うとき、初めて人々はこの道を信じ、この道に加わろうと思うのです。
 いま、このミサの中でエマオの弟子たちに起こったのと同じことがわたしたち自身に起こります。聖書朗読を聞き、説教を聞いて心を燃え上がらせたわたしたちの前に、イエスが姿を現すのです。深い祈りの中で司祭がパンを裂くとき、わたしたちの目が開かれ、御聖体の中にイエスがおられることにはっきりと気づかされるのです。イエスと出会ったわたしたちは、喜びの知らせを告げるために大急ぎで出かけて行くことになるでしょう。この喜びの知らせを、苦しみの中にいる仲間たちに一刻も早く知らせなければならないからです。祈り、分かち合うことによって、人々に生きているイエスを証することができるよう、心から祈りたいと思います。
※写真…宇部市、ときわ公園で満開を迎えているリンゴの花。