バイブル・エッセイ(450)『手と足を見なさい』


『手と足を見なさい』
 そのとき、エルサレムに戻った二人の弟子は、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。(ルカ24:36-43)
 イエスの姿を見て驚き、まるで幽霊でも見たかのように脅えている弟子たちに、「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ」とイエスは言います。普通なら、自分が自分であることを証明するためには、「わたしの顔を見なさい」と言うはずでしょう。ですが、イエスは「手と足を見なさい」と言いました。なぜでしょうか。
 一つには、復活したイエスの手と足に、十字架につけられた傷跡が残っていたということだと思います。他人のそら似ということが仮にあったとしても、この傷跡までは誰にも真似ができません。手と足の傷こそ、復活したイエスが、十字架にかけられたイエスであることの何よりの証なのです。
 それだけではありません。手と足の傷は、弟子たちに裏切られながら、それでも自分の命を捨てて弟子たちを愛しぬいたイエスの愛の証でもあります。エスの生き様を凝縮したような手と足の傷を見たとき、弟子たちは「この方は間違いなく、わたしたちの主であるイエスだ」と確信したに違いありません。そのような傷こそ、その人がその人であることの何よりの証なのです。
 わたしたちの身近でもそんなことがあると思います。たとえば、もうずいぶん前に亡くなったうちのおじいちゃん。南方の戦地から戻ったあと、彼は日々、畑に出て家族のために働き続けました。そのため、彼の手は大きくてごつごつし、傷やひびだらけでした。家族を愛し、家族のために働き続けた長い年月が、彼の手にしっかりと刻みこまれていたと言っていいでしょう。復活しても、彼の手はきっとそのままだと思います。その手こそ、彼が人々を愛し抜いた証だからです。その手を見るとき、わたしたちは彼がどれだけわたしたちを愛してくれたかを思い出し、彼が彼であるとはっきり知ることができるのです。
 マザー・テレサの足もそうでした。貧しい人々を訪れるために歩き続けたマザーの足は、親指が内側に大きく曲がっていました。いわゆる外反母趾です。お腹を空かせた人、病気で死にかけている人、孤独の中で苦しんでいる人を放っておくわけにはいかないと、痛みこらえながら歩き続けた彼女の人生が、その足の形に凝縮されているようでした。彼女の愛が、足に凝縮されていたと言ってもいいでしょう。復活しても、マザーの手はきっとそのままだと思います。その足こそ、マザーが人々を愛し抜いた証だからです。その足をみるとき、わたしたちはマザーがどれだけわたしたちを愛してくれたかを思い出し、マザーがマザーであるとはっきり知ることができるのです。
 エスの言葉に従って、イエスの手と足をじっと見たいと思います。手と足の傷跡から、わたしたちのために自分の命さえ捧げて下さったイエスの愛を感じ取るとき、わたしたちは自分がいま出会っている相手が、まさにキリストであり、救い主であることを知るでしょう。イエスの手と足を見ることから、わたしたちと復活のイエスとの本当の出会いが始まるのです。
【お知らせ】7月4日(土)13:00-16:00、東京・四ツ谷聖イグナチオ教会、ヨセフホールにて講演させて頂くことになりました。テーマは「マザー・テレサに学ぶ奉仕の心」。参加無料。アーティストRIEさんによるトークマザー・テレサの心を描く」もあり。どうぞ皆さまご参加下さい。
※写真…マザー・テレサの足。