バイブル・エッセイ(466)神様の愛を食べる


神様の愛を食べる
※8月16日にカトリック宇部教会で行われた、福島の子どもたちとともに捧げるミサでの説教です。
 そのとき、イエスユダヤ人に言われた。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」(ヨハネ6:51-58)
「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」とイエス様は言います。なぜ、イエス様は「食べる」という表現を使ったのでしょう。どうしたら、イエス様の体を食べることができるのでしょう。
 大切なのは、イエスの体は神様の愛の目に見えるしるしであり、神様の愛そのものだということです。目に見えない神様の愛は実感できなかったとしても、イエスの優しい言葉や笑顔、手の温もりなどを通してわたしたちは神様の愛を実感することができるのです。エス様の体を食べるということは、つまり神様の愛を食べるということなのです。では、どうしたら愛を食べることができるのでしょう。愛は、歯で噛むことはできないし、そもそも目に見えるものでもありません。
 たとえば、お母さんが作ってくれたドーナッツを食べるときのことを思い出してみましょう。家に帰ってきて、テレビを見ながらおやつのドーナッツを食べたとします。ドーナッツでお腹が一杯になったとしても、それだけではドーナッツを本当に食べたことにはなりません。ドーナッツを作ってくれたお母さんの愛を食べていないからです。お母さんの愛を食べるには、「わたしのためにドーナッツを作ってくれてありがとう」と心の中で感謝することです。そうすると、わたしたちはドーナッツだけでなく、ドーナッツの中に込められたお母さんの愛も食べることができます。お腹だけでなく、心も一杯になって、体も心も元気になることができるのです。
 復活したイエス様は、いま、わたしたちの身の回りにいる人たちを通して神様の愛を与えて下さいます。キャンプや海水浴、動物園、バーベキュー大会などの夏の体験の中にも、イエス様の愛がたっぷり込められているのです。動物園に行って楽しかった、海に行っておもしろかった、バーベキューを食べておいしかったということだけで終わらせてはいけません。一つ一つの出来事を、丁寧に思い出して感謝することが大切です。食事や楽しいことを準備してくれたたくさんの人たちや、連れて行ってくれたお父さんやお母さん、わたしたちを見守って下さる神様に感謝することで、わたしたちは一つひとつの出来事にこめられた愛を食べることができるからです。
 いろいろなことをしているうちに、夏休みはすぐに終わってしまいます。どんなに素晴らしい体験をしたとしても、その体験をしっかり食べて心を養わなかった子どもは、夏休みの終わりに「学校に行くのいやだー」ということになるでしょう。一つひとつの体験をしっかり食べて、心の中に愛を蓄えた子どもは、心にたっぷり力をつけて元気よく学校に行くことができるに違いありません。感謝の気持ちで神様の愛をしっかり食べ、心に栄養をつけることができるようにお祈りしましょう。