バイブル・エッセイ(478)天国の賽銭箱


天国の賽銭箱
 エスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」(マルコ12:41-44)
 人々が神殿の賽銭箱にお金を入れるのを、イエスがじっと見ています。もし神父が、教会の献金箱の前に座ってみんながどれだけ入れるか見ていたら、それはおかしなことでしょう。イエスは、なぜ賽銭箱の前に座っていたのでしょうか。エスはきっと、人々がどんな思いで賽銭を入れるのかを見ていたのだと思います。
 賽銭の目的は、神への愛のしるしとして、自分を差し出すということにあります。もし人から褒められるためにするならば、それは自分自身を愛しているだけで、賽銭の意味がありません。賽銭を入れるときに大切なのは、その人の心なのです。だからこそイエスは、賽銭箱の前で人々の思いを見ておられたのです。
 わたしたちが賽銭を入れるとき、神への愛は、地上の賽銭箱ではなく天国の賽銭箱に入ると考えてもいいでしょう。イエスは、今日も天国の賽銭箱の前に座って、わたしたちがどれだけ入れるか見ておられます。人から評価されなかったとしても、イエスはわたしたちがどれだけ入れたかをちゃんと見ておられるのです。賽銭に込めたわたしたちの思いを、しっかりと受け止めて下さるのです。
 やもめの献金で大切なのは、やもめが自分の持っているものをすべて差し出したことだと思います。愛の量は、どれだけの金額を入れたかによってではなく、その人がどれだけ自分を犠牲にしたかによって測られるのです。たとえ100円の献金だったとしても、それがその人の全財産であるならば、その献金には大金持ちがする何億円の献金以上の価値があります。小さなことしかできなくても、誰からも評価されなくても、たった1人しか助けられなかったとしても、自分のすべてを差し出したならば、自分にできる限りのことをすべてしたならば、そこにこめられた愛は限りなく大きいのです。
 奉仕活動や教会の活動で大成功して人から褒められたとしても、それだけで満足してはいけません。むしろ、そんなときこそ自分の行動がイエスの目にどう映っているかを考えるべきでしょう。自負心が大きくなればなるほど、賽銭箱に入る愛は小さくなるからです。たくさん入れたつもりで、まったく入れていなかったということさえありえます。毎週、決められたことをきちんとしていたとしても、それだけで満足してはいけません。決められたことを嫌々しているだけならば、賽銭箱に愛は入らないからです。毎月きちんと入れているから大丈夫と思っていても、実はまったく入っていなかったということもありえるのです。
 天国の賽銭箱は、お金がなかったとしても入れることができる賽銭箱です。いつでも、どこでも入れることができる賽銭箱です。わたしたちが神のために自分を差し出すとき、天国の賽銭箱にチャリンとよい音を立てて賽銭が入ります。今日は何回、天国の賽銭箱に音を響かせることができるでしょう。