バイブル・エッセイ(886)空の飼い葉桶

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空の飼い葉桶

そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。(ルカ2:1-7)

「マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」とルカ福音書は伝えています。イエスが今日、わたしたちの心にやって来られるとするなら、この飼い葉桶こそ、わたしたちの心なのではないでしょうか。イエス・キリストはマリアから誕生し、わたしたちの心の飼い葉桶にそっと置かれるのです。

 飼い葉桶がわたしたちの心だと考えると、いろいろ大切なことに気づかされます。長年使い込まれた飼い葉桶は、牛にけられてへこんだり、よだれが沁み込んだりして、傷つき、汚れているでしょう。でも、それは問題ではありません。見た目は悪くても、中に干し草をたっぷり入れることさえできればいいのです。ですからわたしたちも、自分の傷ついた心、罪の汚れをぬぐい切れない心を気にする必要がありません。イエスを迎える飼い葉桶であるためには、心に干し草をたっぷり入れるスペースがあればいいのです。

 では、干し草とは何でしょう。それは神さまの愛だと思います。わたしたちが、神さまへの愛のため、隣人への愛のために自分を差し出すとき、神さまは、空っぽになったわたしたちの心に、ふわふわで温かい愛の干し草を入れてくださるのです。努力して干し草を集める必要はありません。ただ、神さまのために自分を差し出し、心の飼い葉桶を空にするだけでいいのです。

 たとえば、わたしたちの心が怒りや憎しみで一杯だったら、神さまは干し草を入れることはできません。干し草を入れたとしても、怒りや憎しみの炎に燃やし尽くされてしまうことでしょう。干し草を入れていただくには、怒りや憎しみの炎を消す必要があります。怒りというのは、わたしたちの心の中にある「どうして自分の思った通りにならないんだ」という気持ち、すべてを自分の思った通りにしたいと願う傲慢から生まれてきます。その傲慢さを手放し、「わたしの思った通りにではなく、すべてあなたのみ旨のままになりますように」と神さまに自分を差し出すとき、神さまはわたしたちの心の飼い葉おけに干し草を入れてくださいます。

 あるいはたとえば、わたしたちの心が人を押しのけてでも金持ちになりたい、権力や名誉を手に入れたいというような野心で満たされていたらどうでしょう。ぎらぎらした、どろどろの野心で一杯の心には、神さまと言えど、干し草を入れる気にならないでしょう。「わたしはあなたのしもべ。わたしをあなたのみ旨のままにお使いください」と神さまに自分を差し出すとき、神さまはわたしたちの心の飼い葉桶に干し草をいれてくださいます。

 そのようにして、わたしたちの心が干し草で一杯になったときこそ、イエスが誕生するときです。神様は、準備ができた飼い葉桶から、イエスを置いてくださることでしょう。謙虚な心で神様に自分を差し出し、イエスを置いていただくことができるよう共に祈りましょう。