バイブル・エッセイ(567)祈らずにいられない


祈らずにいられない
 エスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」(ルカ18:1-18)
 これは、「気を落とさずに絶えず祈り続けなければならない」ことを教えるために、イエスが語ったたとえ話です。神の裁きは必ずやって来る、すべての苦しみはやがて取り除かれると信じ、あきらめずに祈り続けることが大切だということでしょう。この女性は自分の利益のために祈りましたが、わたしたちは、自分も含めて苦しんでいるすべての人たちのために祈ります。地上に神の支配が実現し、すべての人が「神の子」として幸せに生きられるように祈るのです。あきらめるわけにはいきません。
 あきらめさせようとする誘惑は、しばしばやって来ます。「これだけ祈ってだめだったのだから、もうだめだ。なるようになれ」と考えて、祈ることさえやめたくなることがあるのです。たとえば、世界の貧困や難民の問題。あるいは、身近な友人や家族の抱えた深刻な問題などについて、そのようなことが起こりがちです。ですが、わたしたちがあきらめても、苦しみはなくならなりません。わたしたちが目を閉ざしても、苦しんでいる人たちは存在し続けるのです。苦しんでいる人たちを、見殺しにしてはなりません。
 仮にわたしたちがあきらめても、神は決してあきらめることがありません。「昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか」とイエスが言っている通りです。神は、苦しんでいる「神の子」たちを決して見捨てることがありません。フランシスコ教皇は、先日発表された「世界難民の日」のメッセージの中でこのような神の思いを代弁し、次のように語りました。
「難民とならざるを得なかったこの見捨てられた小さな子供たちのことを思うと、胸も張り裂けんばかりです。大声で叫びたい。一人ぼっちで多くの大人の中に混じって難民となるこの子供たちのために何かしてあげください。」
 神はあきらめず、教皇もあきらめません。わたしたちも、決してあきらめてはならないと思います。神のいつくしみを、疑ってはなりません。神の裁きは必ず行われると信じて、気を落とすことなく祈り続ける必要があるのです。
「神の裁き」というと厳しく響きますが、恐れる必要はありません。神の裁きとは、愛の実現に他ならないからです。神は、自分の都合ために裁くのではなく、苦しんでいる人間たちのために裁きます。裁きの基準は愛だけです。神はわたしたちを救いたくて仕方がないのです。何も恐れる必要はありません。
「人の子がやって来るとき、地上に信仰を見出すだろうか」とイエスは言います。わたしたちの信仰を支えるのは愛です。苦しんでいる人たちの姿を見るとき、わたしたちは祈らずにいられなくなるのです。愛し続け、祈り続けることができよう、そのための力を神に願いましょう。