バイブル・エッセイ(494)悔い改めの実を結ぶ


悔い改めの実を結ぶ
 ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」(ルカ13:1-9)
 今日の福音朗読では、悔い改めをテーマとした二つの話が語られています。突然の事件や事故で死んでいった人たちの話と、実をつけないために切り倒されそうになったイチジクの木の話です。関係のない話のように見えますが、この二つの話は、根本的なところで一つのメッセージを語っているように思います。それは、悔い改めて、それにふさわしい実をつけなさいということです。
 まず、一つ目の話から見てみましょう。当時のニュースの中から、イエスは2つの例を挙げて、「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と繰り返します。テレビのニュースなどで事件や事故で死んだ人の話を聞くとき、わたしたちはまるで他人事のように思ってしまいがちです。ですが、わたしたちだって、いつ同じような目にあうかわからないのです。そこでイエスは人々に、そのような話を聞くたびごとに、自分にもやがて訪れる死を思って悔い改めるよう勧めます。死がやってきたときに、安心して神の手に身をゆだねることができるように、いつも心を準備しておく必要があるのです。
 内村鑑三が、「一日一生」と言って、毎朝、新しい人生が始まるかのような気持ちで喜びと感謝の心で一日を始め、今日一日しかないように全力で生き、この一日を生きられたことに感謝して心やすらかに眠りにつく生き方を勧めています。一日を一生と思い、日々、自分に与えられた使命を全力で果たしている人、神の前に恥ずるところのない生き方をしている人は、いつ死がやってきたとしても動じることがないでしょう。いつ死がやってきたとしても、まるで一日の終わりに眠りにつくのと同じようにやすらかな心で感謝して死を迎え入れ、一生を終えることができるはずです。
 次に、二つ目の話を見てみましょう。この話で強調されているのは、イチジクの木が植えられるのは、実をつけるためだということです。イチジクがどんどん背を伸ばし、枝を大きく張ったとしても、実をつけないなら主人は決して喜びません。かえって、いい場所で太陽の光を浴び、土地の栄養を吸い取っているのに何の役にも立っていない、「場所をふさいでいる」と思われるだけなのです。
 このイチジクの木をわたしたちと重ねてみましょう。神様がわたしたちをこの世界に植えられたのは、愛の実をつけるためだと言っていいでしょう。自分が成長すること、財産や名誉、権力を手に入れて自分が大きくなることだけに全力を尽くし、大きくなったことを誇っても、神様は決して褒めてくれません。愛の実をつけて、自分を人々と分かち合うときにこそ神様は喜んで下さるのです。太陽や土地から与えられた恵み、神様からいただいた恵みを愛という甘い果実にして人々に与えることこそ、わたしたちの使命なのです。愛の実は、一度にたくさん実らせることはできないということも覚えておきたいと思います。愛の実は、一つ一つの出会いの中で、一つ一つ実らせてゆくものなのです。いつの日か、木は枯れて切り倒されたとしても、木がつけた実はいつまでも残るでしょう。
 一日を一生と思い、日々、愛の実を結びながら生きている人は、いつ死がやってきたとしても恐れることがありません。自分にできる限りのことはしたと満足し、感謝のうちに一生を終えることができのです。たくさんの愛の実を結んで神様を喜ばせ、満たされた心で一生を終えることができるように、悔い改めの恵みを願いましょう。