バイブル・エッセイ(1065)悔い改めの福音

悔い改めの福音

 イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。(マタイ4:12-17)

「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」というイザヤの預言が実現し、イエスがガリラヤの地で宣教を始める場面が読まれました。イエスの第一声は、「悔い改めよ。天の国は近づいた」という言葉だったとマタイ福音書は伝えています。この一言が、一筋のまばゆい光のように人々の心に射し込み、絶望の闇に沈んだ人々の心を照らしたというのです。

 「悔い改めよ。天の国は近づいた」という言葉は、異邦人、罪人と見なされ、神の救いから遠ざけられていた人々にとって本当に大きな喜びの知らせだったと思います。「悔い改めよ。天の国は近づいた」というのは、すなわち、「あなたたちも、悔い改めさえすれば天国に迎え入れられる。異邦人も罪人も関係ない。悔い改めさえすれば、すべての人が救われる」という力強い宣言だからです。生まれや職業のゆえに差別され、「自分たちは救われない、自分たちの人生には価値がない」と思い込まされていた人たちは、この言葉を聞いてどれほど喜んだことでしょう。「こんなわたしでも、悔い改めさえすれば救われる」と信じたとき、人々の心は大きな希望で満たされました。絶望の闇の中に沈んでいた人たちの人生に、大きな希望の光が射し込んだのです。

 「悔い改めよ」という言葉は、わたしたちを脅かすためのものではありません。「悔い改めなければ救われない」ということではなく、「悔い改めさえすれば救われる」ということなのであり、まさに喜びの知らせなのです。「悔い改めさえすれば、あなたも、わたしも、みな救われる。誰もがかけがえのない神の子なのだ」、イエスの宣教の第一声には、そのような思いが込められていました。

 この同じ声が、今日、わたしたちの上にも響きます。もしかすると、わたしたちの中にも、「こんな自分は救われる価値がない」とか「自分の人生には意味がない」と思っている人がいるかもしれません。わたし自身の中にも、多かれ少なかれそういう思いはあります。しかし、そんなことはないのです。悔い改めさえすれば、悔い改めて神の愛に心を開きさえすれば、誰もが神の子として喜びに満ちた日々を生きることができるのです。

 「でも、その『悔い改める』というのが難しいんですよ」という人がいるかもしれません。そんなに難しく考える必要はないでしょう。悔い改めるために必要なことはただ一つ、「自分は神さまから愛されている」と信じることだけなのです。「こんなわたしでも、神さまは見捨てないんだ。わたしは神さまから愛されている」と信じるとき、わたしたちの心は喜びで満たされます。その喜びは、あたたかな笑顔ややさしい言葉、親切な行いとなってわたしたちから流れ出し、わたしたちの周りの人たちの心も満たしてゆくでしょう。それが悔い改めなのです。

 「悔い改めよ」という言葉を今日も聞くことができた。そのこと自体に救いがあるといってよいでしょう。イエスの言葉を心に深く刻み、神の子としてふさわしく生きることができるように、互いに愛しあって生きる天国をこの地上に実現することができるように、心をあわせてお祈りしましょう。

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