バイブル・エッセイ(505)教会の誕生


教会の誕生
 旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミアユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」(使徒2:1-11)
 旬祭の日にみんなが心を一つにして祈っていると、聖霊の風が激しい音を立てて吹き、一人ひとりの心に喜びの炎が燃え上がった。弟子たちは、神さまの愛を、すべての人の心に届く言葉で語り始めた。これこそが、教会の出発点です。聖霊の風が教会を生んだのです。聖霊降臨のときだけではありません。今も、ミサのたびごとに吹く聖霊の風が、教会を新たに生まれ変わらせます。
 わたしたちが心を一つにして祈るとき、聖霊の風が吹きます。一つの聖堂に集まっているというだけでは不十分です。一カ所に集まっていたとしても、それぞれが自分のためだけに祈っているなら、心はバラバラだからです。心を一つにするとは、そこに集まっているすべての人たちのことを思い、自分も含めて集まっているすべてのひとたちのために祈るということです。「あのおじいさん、おばあさん、あのお父さん、お母さん、あの子どもたちを救ってください。わたしたちを救ってください」と祈るとき、わたしたちの心は一つになるのです。わたしたちの心の中に相手がいて、相手の心の中にわたしたちがいるとき、わたしたちの心は一つになるのです。わたしたちの心が一つになるとき、聖堂に聖霊の風が吹きます。「わたしの言葉を守るとき、あなたがたのもとに聖霊がやって来る」というイエスの約束通り、「互いに愛し合いなさい」という言葉を祈りの中で実践するとき、わたしたちの心に聖霊がやって来るのです。
 聖霊の風は、激しい音を立てて吹き、わたしたちの心の中にある不安や恐れを吹き飛ばします。キリストの霊がやって来るとき、心の底から湧き上がって来る喜びと安らぎが、あらゆる不安と恐れを消し去ってゆくのです。わたしたちは、家族のこと、健康のこと、仕事のこと、自分の将来のことなど様々な不安、恐れを抱えて聖堂に集まります。ですが、それらのすべてを神の手に委ね、心を一つにして「わたしたちを救ってください」と祈るとき、不安や恐れはどこかに消えてゆきます。「わたしたちは確かに神から愛されている。神はわたしたちと共にいて下さる」という確かな実感が、恐れや不安を吹き飛ばしてしまうのです。
 恐れや不安が吹き飛ばされるとき、わたしたちの心は喜びの炎で燃え上がります。あれほどまでにわたしを苦しめていた悩みが消え去り、心に平和が戻った。キリストが、キリストと共に父なる神がわたしと一緒にいてくださる。もう何も恐れる必要はない。その喜びが、わたしたちの心を燃え上がらせるのです。
 わたしたちはその喜びを語らずにいられません。言葉が出なかったとしても、わたしたちの全身が語り始めます。喜びに満たされ、力にあふれたわたしたちの姿が、「あれほどひどく苦しんでいたわたしを、神様はこのように救ってくださいました」「神様の恵みに満たされて、わたしはいまこんなにも幸せです」というメッセージを人々に伝えるのです。そのメッセージは、言葉の壁を越えてすべての人の心に届くメッセージです。バベルの塔で欲望によって乱された言葉は、聖霊の喜びの中で一つになります。すべての人が、愛という一つの言葉で語り始めるのです。
 今日、このミサの中でも聖霊の風が吹き、わたしたちの心に喜びの炎が燃え上がります。聖霊に満たされた力強い宣教者、すべての人の心に届く喜びの言葉を語れる宣教者となれるように、心を合わせて祈りましょう。