バイブル・エッセイ(561)「神の子の謙遜」


「神の子の謙遜」
 エスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(ルカ14:7-11)
 「誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」とイエスは言います。人の前でも、神の前でも、高ぶる者は低くされ、へりくだるものは高められるということです。謙遜な人だけが、神からも、人からも愛されて幸せに生きることができるのです。
 神の御旨に従って謙遜に生きる人は、それだけで「神の子」と呼ばれます。何も特別なことをする必要はありません。ただ神の御旨のままに、日々を誠実に生きているだけで、誰もが「神の子」なのです。「神の子」であること以上に高い身分はないと言っていいでしょう。政治家の子ども、社長の子ども、芸能人の子どもなどが尊敬されることがありますが、そのようなこととはまったく比べものになりません。わたしたちは、誰もが生まれながらに「神の子」と呼ばれる資格を持っているのです。わたしたちには、地上のどんな身分にも勝る身分があるのです。その意味で、わたしたちは自分に自信を持っていいでしょう。
 ですが、「神の子」だからと言って、それを誰かに誇ることはできません。わたしたちは、罪人であるにも関わらず、神のいつくしみによって「神の子」にしていただいたのです。誇るならば、神のいつくしみ深さを誇るべきでしょう。わたしたち自身には、何も誇るべきことがないのです。思いあがって自分を誇り、神への感謝を失うとき、わたしたちは神の愛から遠ざかってゆきます。神の愛を当然の権利として受け取り、放蕩息子のように父の元を離れてゆくのです。自分の欲望のままにふるまって、「神の子」と呼ばれるにふさわしくない者になってしまうのです。神の前で「高ぶる者が低くされる」とはそういうことです。高ぶる者は、「神の子」と呼ばれるのにふさわしくない者となり、「神の子」として生きる幸せを失ってしまうのです。
 謙遜な心で、神の御旨のままに生きている限り、わたしたちは「神の子」として幸せに生きることができます。ですが、思いあがった瞬間に、その幸せを失うのです。例えば、誰かが自分の思った通りに動いてくれないとき、謙遜な人は、自分の思いが間違っていたことに気づき、「神様、どうするのが一番いいでしょうか」と神に尋ねるでしょう。しかし、傲慢な人は腹を立てて相手を責めます。神のことは忘れて、自分の思いを絶対と考えてしまうのです。その結果、怒りや憎しみに捕らわれて心の平和を失うことになります。
 あるいは例えば、自分自身が思った通りの結果を出せなかったとき、謙遜な人は自分が大きすぎる期待を抱いていたことに気づき、「神様、あなたの御旨のままになさってください」と祈ります。傲慢な人は自分を責めて絶望し、諦めてしまうでしょう。自分が「神の子」であることは忘れて、絶望の闇に落ち込み、幸せを失うのです。
謙遜な心で、神の御旨に従って生きることこそが、「神の子」として幸せに生きるための唯一の道です。思いあがって自分を誇り、神への感謝を失えば、その瞬間からわたしたちは「神の子」と呼ばれるにふさわしくない者となり、幸せを失ってしまうのです。謙遜な心で、神の御旨のままに生きる恵みを願いましょう。