バイブル・エッセイ(565)神のしもべの謙遜


神のしもべの謙遜
 「あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」(ルカ17:7-10)
 神から与えられた使命を果たしたとき、わたしたちはつい「これだけやったのだから、報いがあって当然」と考えてしまいがちです。ですが、イエスは「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」と弟子たちに勧めます。思い上がってはいけないということです。「これだけやったのに、報いはたったこれだけですか」と神に不満を言えば、その瞬間からその人はよいしもべではなくなってしまいます。不満を言った瞬間、その人は自分を自分の主人にし、神に逆らう者になるのです。
 わたしたちの人生の主人は神。わたしたちは、「神のしもべ」に過ぎないとイエスは言います。「神のしもべ」ということは、つまり神の奴隷のようなものです。そう言われると、何かいやな感じがする人は多いでしょう。「自分が自分の主人になって、自分の思った通りに生きたい。それが自由というものだ」と考えたくなるのです。ですが、それは悪魔のトリックです。神に従うのをやめ、自分の思った通りに生き始めるとき、ほとんどの場合、わたしたちは自分の欲望の奴隷になってしまうのです。欲望の奴隷になった人は、欲望の赴くままに生きて家族や友人と争い、社会に不満を言うようになります。そのようにしてわたしたちを不幸にするのが、悪魔の手口なのです。
 神のみ旨に従って生きるときにこそ、わたしたちは欲望から解放され、真の自由を生きることができます。真の自由を生きるためには、祈りの中で神のみ旨をしっかりと聞き分け、それに従って生きなければならないのです。「これからどうやって生きてゆこう」「今日一日、どうやってすごそう」などと考えるとき、心の表面に響いている「あれがしたい、これがほしい、あそこに行きたい」といった大きな声に、すぐに耳を傾けてはいけません。それは、欲望の声だからです。その声に従うとき、わたしたちは神のしもべではなく、欲望の奴隷になります。神のしもべになりたいならば、心の奥底から静かに呼びかける、神の声に耳を傾ける必要があります。イエスは、わたしたちの心の一番奥深くに住んでいて、わたしたちに呼びかけているのです。
 欲望に引きずられながら「どちらが得だろう。どちらがより楽しくて、快適だろう」と考え、「神様、どうかどちらが得か教えてください」などというのは祈りではありません。それでは、自分の欲望のために神を利用することになってしまいます。自分を主人にし、神をしもべにしてしまうのです。そのような損得勘定をやめ、自分の心が本当に望んでいることを感じ取ってゆく必要があります。利害損得を考えるのではなく、自分の心の一番奥深くにあるものを感じ取るのです。
 神は、わたしたちの心の一番奥深いところに住んでおられます。わたしたちの心の一番深い望みこそ、神の呼びかけであり、神の呼びかけこそ、わたしたちの心の一番深い望みなのです。神の呼びかけを聞き取るとき、わたしたちは初めて自分の本当の望みに気づき、本当の望みに従って自由に生きることができるのです。欲望の奴隷ではなく、自分の本当の望みに従って生きる自分の主人になることができるのです。逆説的ですが、わたしたちは神のしもべになるとき、はじめて自分の主人になることができるように創られているのです。
 家族や友人との関係でいえば、わたしたちは心の一番奥深くで、争いあうことではなく、一緒に仲良く暮らすことを望んでいます。それこそ、神の望みです。神の望みに気づき、「神様、この人と仲良く暮らすために、わたしはいま何をすればいいでしょう」と祈るとき、神がなすべきことを教えてくださいます。神のみ旨に従って生きることによって、わたしたちは本当の幸せを手にすることができるのです。
「わたしは自由だ」と完全にと思い込ませながら奴隷にする悪魔の巧妙なトリックに、人間は簡単にひっかかってしまいます。人間のプライドを掻き立て、欲望に従わせようとする悪魔のトリックにひっかからないように、悪魔のこの手口をしっかりと覚えておきましょう。
 わたしはイエズス会の霊操によって祈りを深めてきましたが、心に浅いところと深いところがあり、深いところの望みを感じ取ることが祈りだと、最初に教えてくれたのはマザー・テレサでした。わたしはそれまで、利害損得ばかり考えていて、心の深みを感じ取る祈りなどまったく知らなかったのです。
 マザーは、どんなときでも、心の奥底から呼びかける神の声に耳に従って生きる謙遜な人でした。マザーはよく「わたしは取るに足りない神のしもべにすぎません。与えられた使命を果たして、去っていくだけです」と言っていたものです。普通、ノーベル平和賞をとったりすれば、思い上がって「なんだ、それがノーベル平和賞受賞者に対する口の利き方か」というような態度をとってしまいがちでしょう。ですが、マザーは決してそんなことがありませんでした。最後の瞬間まで、「自分は神のしもべにすぎない」という態度を崩さなかったのです。神のしもべとして生き、聖人となったのです。思い上がって自分を主人にすれば、その瞬間、わたしたちは自由を失って不幸になります。マザーのとりなしによって、「神のしもべ」として生きる恵みを神に願いましょう。