バイブル・エッセイ(772)人間の分際


人間の分際
 イエス・キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。(フィリピ2:6-11)
 「キリストは、神の身分でありながら、かえって自分を無にして人間と同じ者になった」とパウロは言います。そればかりか、人間からのあらゆる侮辱や仕打ちをゆるし、神の御旨のままに十字架上でご自分の命を差し出したのです。徹底的な謙遜という他ありません。それに対して、わたしたちはこの逆のことをやってしまいがちです。人間の身分でありながら、思い上がって自分を神の座にまで引き上げ、人を裁いてしまいがちなのです。
 わたしたちは、人を裁くとき、自分のことはすっかり棚に上げています。「あの人は我がままだ」とか、「うぬぼれている」とか言うとき、わたしたちは自分自身がどれだけ我がままか、どれだけうぬぼれているかは、すっかり忘れてしまっているのです。そして、自分は隣人愛にあふれた謙遜な人間だという顔で、人を批判します。自分を、完全無欠な神の座に引き上げているのです。
 それに対して、イエスは人を裁くことがありませんでした。侮辱や暴力を受けたときでさえ、イエスは相手をゆるしたのです。それは、人間の不完全さを知っていたからです。人間となったイエスは、人間がどれだけ弱く不完全な存在であるかをよく知っていました。だからこそ、相手を憐れんでゆるし、自分を迫害する者たちのために、「彼らをゆるしてください。自分が何をしているかわかっていないのです」と祈ることができたのです。
 渡辺和子さんがよく「思ったとおりにならなくて当たり前。思ったとおりになったら感謝しなさい」と言っておられましたが、これも人間の分際をわきまえるということでしょう。わたしたちは普通「思った通りにならなければ腹を立て、思った通りになったら当たり前」と考えます。ですが、すべてが思った通りなって当然なのは神様だけです。わたしたちは、知らず知らずのうちに自分を神の座にまで引き上げ、傲慢な心で周りの人たちや、自分を取り巻く状況に対して腹を立てているのです。人間となられたイエスは、自分の思った通りにならない他の人間たちに腹を立てることがありませんでした。それが人間の限界だとわかっていたからです。エスは人間としての限界を受け入れ、その中でご自分にできることをすべてされたのです。
 自分の不完全さを棚に上げるとき、相手を裁く心が生まれ、自分の不完全さを思い出すとき、相手をいたわる心が生まれます。「すべてが思った通りになるのは神様だけ、人間なのだから、思った通りにならなくて当たり前」と思うとき、腹立ちが消え、感謝の心が生まれてきます。大切なのは、人間としての分際を忘れないこと。自分を神の座にまで引き上げないことです。人を裁きたくなったり、思ったとおりにならない状況に腹が立ったりしたときは、「イエスは神の身分でありながら、へりくだって人間とならなれた。それなのに、人間でありながら自分を神の座に上げている自分は何者なのだろう」と自分に問いかけるようにしたいと思います。