バイブル・エッセイ(771)永遠を凝縮した一瞬


永遠を凝縮した一瞬
 マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」(ヨハネ11:17-26)
 「生きていてわたしを信じる者は誰も、決して死ぬことはない」とイエスは言います。ですが、どんなに信心深い人であっても、肉体の死は必ずやって来ます。「決して死ぬことがない」とはどういう意味なのでしょう。決して死なないもの、永遠に消えることのないものが、この世界に存在するのでしょうか。
 永遠に消えないものがもしあるとすれば、それは愛だとわたしは思います。たとえ肉体は滅びても、神様と私たちの間に結ばれた愛は、永遠に消えることがないのです。わたしたちは、神様の愛の中で永遠に生きると言っていいでしょう。
 そもそも永遠とはなんでしょうか。天の国は、「一瞬が永遠となり、永遠が一瞬となる」世界、時間を越えた世界だと表現されることがあります。人間の理解を遥かに越え、矛盾しているようにさえ思える表現ですが、その中に真実が隠されているように思います。わたしたちと神様の間に愛の絆が結ばれるために必要なのは、ほんの一瞬なのです。神様を信じ、自分のすべてを神様に委ねて神様の愛と結ばれる一瞬。その一瞬こそ永遠の命への入り口なのです。
 通夜・葬儀などで亡くなった方のお顔を拝見するとき、どのお顔もとても穏やかな表情をしておられるのを見て安心します。生きている間、病気やさまざまな問題で苦しまれた方でも、死に顔はとても安らかなのです。それは、その方が永遠の命に入られたことのしるしだとわたしは思います。死ぬときに何が起こるのか想像もできませんが、どんなに死から逃れようとしても、逃げ切ることができた人は誰もいません。最後には、必ず死に追いつかれ、死と向かい合うことになります。そのとき、おそらくわたしたちは、死の向こう側に神様を見つけ出すのでしょう。すべての終わりだと思われていた死は、実は永遠の命への入り口だということに気づくのです。信じてすべてを神様の手に委ねるとき、わたしたちはこの地上での命を終え、永遠の命に入ってゆきます。それが、死ということなのだろうと、わたしは想像しています。
 永遠の命に入るために、死のときまで待つ必要はありません。たとえほんの一瞬でも、神様を信じ、神様の手に自分のすべてを委ねることができれば、その一瞬を通ってわたしたちは永遠の命の世界に入ることができるのです。一日の中に一瞬でも、一秒でも、神様にすべてを委ねる瞬間があれば、その人は一日を穏やかな笑顔で生きることができるでしょう。
 大切なのは、どれだけ長く祈るかということよりも、むしろ祈りの密度だろうと思います。「これだけは手放したくありません」「あれだけはとっておいてください」などと留保を付けながら、だらだら祈ってもあまり意味がありません。すべてを手放し、「あなたが不要だと思えば、すべて取り上げてください」と心から祈るなら、その一瞬がわたしたちの生活のすべてを変えるでしょう。ほんの一瞬であっても心の底から神様を愛することができるよう、永遠を凝縮したような一瞬の愛の恵みを味わうことができるよう、真心を込めて祈りましょう。