バイブル・エッセイ(774)苦しみのしもべ


苦しみのしもべ
 見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる。かつて多くの人をおののかせたあなたの姿のように、彼の姿は損なわれ、人とは見えず、もはや人の子の面影はない。それほどに、彼は多くの民を驚かせる。彼を見て、王たちも口を閉ざす。だれも物語らなかったことを見、一度も聞かされなかったことを悟ったからだ。わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。(イザヤ52:13-53:5)
「この人は主の前に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている」とイザヤ書が語る「苦しみの僕」を、教会は十字架上のイエス・キリストと重ね合わせて理解してきました。エスが担ったのは、わたしたち自身の苦しみだった。イエスが人類の苦しみを担ってくださったのに、人類は「あの人は神に背いて罰せられるのだ」と思い込んでいた、ということです。誰かの代わりに苦しみを担う、ある人の苦しみが、他の人の救いにつながるというようなことが、果たしてあるのでしょうか。
 昨年、相模原の施設で知的障がいを負った入所者の方々が19名殺害されるという事件が発生しました。犯人の理屈は、「障がい者は社会の足を引っ張るだけだから、殺してしまった方がいい」という身勝手なもので、多くの人々がこの事件にショックを受けたと思います。わたしも、障がい者施設で働く方々から、この事件をどう受け止めてよいか相談を受けました。「あんなことを言われて、悔しくて仕方がない。なんとか言い返してやりたい」というのです。
 ある施設の職員の方は、「人類が存続してゆく中で、どんなに医療が発達しても、必ず障害を負って生まれてくる人たちがいる。それは、きっと人間の理解を越えた自然の摂理のようなものなのだろう。障がいを負って生まれてきた方は、人類のために、わたしたちのために代わりに苦しみを背負ってくださっているのだと自分は考えている」とおっしゃいました。「軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている」というイザヤ書の描写は、まさに障がい者のみなさんが置かれた現状に重なるようにも思えます。それを自分と関係のないことと思っている人もいるかもしれませんが、彼らはわたしたちが背負ったかもしれない苦しみを、代わりに背負ってくださっているのかもしれないのです。
 妹さんが障がい者だったケネディー大統領は、障がい者福祉についてアメリカが彼らを救うのではない。彼らがアメリカを救うのだ」と語ったそうです。効率や業績をすべてと考える厳しい競争社会の中にあって、障がいを負いながらも精一杯に生きている人々の存在は、生命の尊さを思い出させてくれる。精一杯に生きているというだけで、命には価値がると教えることによって、障がい者は人類を救う、ということでしょう。その苦しみは、まさに人類を救うための苦しみなのです。
 大切なのは、人の苦しみを、他人事として無視しないことだろうと思います。障がいに限らず、病気や老化などによる苦しみ、災害や戦争などによる苦しみは、わたしたち自身が担ったかもしれない苦しみ、明日担うかもしれない苦しみであり、決して「自分でなくてよかった」ということで済ませられるものではないのです。それらの苦しみは、共に担うことで、人類が愛し合うための苦しみだと考えてもよいかもしれません。人々の苦しみを共に担い、イエスの十字架上での苦しみを共に担うことで、わたしたちも人類の救いの業に参加してゆきたいと思います。