バイブル・エッセイ(1076)苦しみの絆

苦しみの絆

 昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:45-54)

 イエスは十字架上で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味の言葉を大声で叫んだ。マタイ福音書は、そう記しています。イエスは十字架にかかることで人類を救ったといいますが、いったいこの言葉のどこに救いがあるのでしょう。イエスは、どのような意味でわたしたちを救ってくださったのでしょうか。

 イエスが味わった苦しみに、答えがあるとわたしは思います。イエスが苦しみを味わうということは、神ご自身が人間の苦しみを知るということに他なりません。弟子たちからの裏切りや人々の嘲笑、ローマ兵からの暴力など、イエスが苦しみを味わうたびごとに、神は人間の弱さと苦しみをご自分のこととして味わい、人間を深く知ってゆかれたのです。イエスの味わった苦しみの一つひとつが、人間と神を結びつける絆となったといってもよいでしょう。

 最後にイエスは、十字架上で、人間が味わうもっともひどい苦しみである、神から見捨てられる苦しみを味わいました。イエスが「なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んだとき、神は人間の苦しみをすべて味わい尽くし、人間と完全に結ばれたといってよいでしょう。イエスのこの言葉は、人間と神とのあいだに結ばれた苦しみの絆の完成だったのです。

 ここに救いがあるとわたしは思います。十字架の出来事を通して、神は、わたしたち人間の苦しみをすべて知っておられる神。わたしたちの苦しみをご自分のこととして味わい、わたしたちと一緒に苦しんでくださる神。なにがあっても、わたしたちに最後まで寄り添ってくださる神となられました。それこそが、わたしたちの救いなのです。

 人生にはたくさんの苦しみがありますが、神はそのすべてを、わたしたちより先に味わいました。ですから、わたしたちは、なにか苦しみを味わうたびごとに、「この苦しみは、イエスも味わった苦しみなのだ。わたしはいま、イエスと共にこの苦しみを担っているのだ」と思うことができます。苦しみを味わえば味わうほど、わたしたちはイエスと深く結ばれてゆくのです。死の間際に、もし「まるで神から見捨てられたようだ」と思うことがあったなら、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになるのですか」と叫ばずにいられないほどの苦しみを味わうことがあったなら、そのときわたしたちと神との交わりは完全なものになるでしょう。ここに、わたしたちの救いがあると思います。わたしたちが味わうすべての苦しみは、イエスとわたしたちを結びつける苦しみであり、どれほどひどい苦しみの中にあっても、わたしたちは神と固く結ばれているのです。

 わたしたちが味わう苦しみは、イエスだけでなく、人間として同じ苦しみを味わっているすべての人たちと自分を結びつける絆ともなります。苦しみの中で、わたしたちはイエスと結ばれ、人々と結ばれてゆくのです。十字架の出来事によって、人間が味わう苦しみは、祝福された苦しみに変わったといってもよいでしょう。イエスの苦しみを共に味わい、その苦しみにおいて救いにあずかることができるよう、心を合わせてお祈りしましょう。

youtu.be

※バイブル・エッセイが本になりました。『あなたはわたしの愛する子~心にひびく聖書の言葉』(教文館刊)、全国のキリスト教書店で発売中。どうぞお役立てください。

www.amazon.co.jp

books.rakuten.co.jp