バイブル・エッセイ(970)父と子と聖霊の名

f:id:hiroshisj:20210530104358j:plain

父と子と聖霊の名

 十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:16-20)

 復活したイエスが、「人々に父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と弟子たちに語りかける場面が読まれました。洗礼によって古い自分に死に、キリストの命に生まれ変わること。新しい自分に生まれ変わって、キリストの教えのままに生きること。それこそが人間にとって救いに他なりませんから、弟子たちはイエスから、すべての人々を救いへと招く使命を与えられたと言ってよいでしょう。そのすべてを、「父と子と聖霊の名によって」するようにとイエスは言うのです。

「父と子と聖霊の名によって洗礼を授ける」ということは、つまり、弟子である自分の名前によってではなく、父と子と聖霊の名によって洗礼を授けるということでしょう。父と子と聖霊にすべてを委ね、父と子と聖霊の力よってその人が生まれ変わるための手助けをする。それが弟子の役割だということです。弱くて罪深いわたしたちに、誰かを救う力などありません。しかし、父と子と聖霊を信じ、父と子と聖霊にすべてを委ねるなら、すべては可能になるのです。ここに、弟子としてのわたしたちの希望があると思います。

 わたしたちはよく、「父と子と聖霊の名によって」と言いながら十字を切る仕草をします。祈りの最後に機械的に付け加えられるような印象の短い祈りですが、心を込めて祈ると、これだけでもとても力になる祈りです。わたしは一日のうちに何回も、この短い祈りを唱えます。ミサに出かけるために車に乗ったとき、幼稚園で子どもたちに話す前、机で原稿に向かいながらなど、折りに触れこの祈りを唱えるのです。

 それは、この祈りを唱える度ごとに、父と子と聖霊の名によってキリストの十字架としっかり結ばれ、新しい命に生まれ変わることができる。父なる神の愛に包まれ、キリストの命に生かされ、聖霊の力に突き動かされて、すべてが可能になる。そんな気がするからです。神父として果たすべき使命はたくさんありますが、その中の最も小さなものをとっても、わたし自身には果たす力などありません。ですが、その弱くて罪深いわたしを十字架にかけ、父と子と聖霊に固く結ばれるとき、もはやできないことは何もなくなります。三位一体の交わりの中で、すべてが可能になるのです。父と子と聖霊の名にすべてを委ねるとき、わたしという不完全な道具を使って、神様がすべてをしてくださる。そのように言ってもよいでしょう。

 わたしにとって、三位一体は、キリストの十字架と固く結ばれた存在です。弱くて罪深い自分、古い自分を十字架にかけるとき、はじめて三位一体の交わりに触れることができると感じているからです。十字架こそが三位一体の交わりへの入り口であり、三位一体の神秘を解き明かす鍵だと言ってもよいでしょう。「なぜ3つのものが1つなのだろう」などと考えている限り、三位一体の神秘を理解することはできません。自分を十字架につけたとき、わたしたちは初めて、父なる神の愛に包まれる体験、キリストの命に満たされる体験、聖霊の力に突き動かされる体験が一つのものであり、三位が一体となってわたしたちを救ってくださることを悟るのです。日々の生活の中で三位一体の神秘を生きられるよう、三位一体の神秘と固く結ばれながら福音を宣教してゆくことができるよう、心を合わせて祈りましょう。

※バイブル・エッセイが本になりました。『あなたはわたしの愛する子~心にひびく聖書の言葉』(教文館刊)、全国のキリスト教書店で発売中。どうぞお役立てください。

www.amazon.co.jp

books.rakuten.co.jp