バイブル・エッセイ(784)ゆるし合って生きる


ゆるし合って生きる
 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。(ヨハネ3:16-18)
 父なる神が自分を遣わしたのは、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とイエスは言います。一人として、見捨ててもいい人、滅びてもいい人などいないということです。わたしたちが互いに受け入れ合い、愛し合って一つの共同体を築き上げてゆくこと、この世界に生きるすべての人が、一人残らず永遠の命を得ることこそ、イエスの望みだと言っていいでしょう。
 三位一体の神のように互いに愛し合い、受け入れあって、一つの心で生きてゆくために必要なのは、互いを裁かず、ゆるし合う必要があります。イエスでさえ、「わたしは裁くためではなく、救うために来た」とおっしゃっています。その弟子であるわたしたちが、誰かを裁いて切り捨てるようなことがあってはならないのです。
 ゆるすとは、どういうことでしょうか。それは、相手をあるがままに受け入れるということだと思います。自分の思ったとおりにならない相手、自分の期待通りに行動してくれない相手を、あるがままに受けいれることこそ、ゆるすということなのです。逆に裁くとは、自分の思ったとおりにならない相手に腹を立て、「あなたはどうしてそうなの」と相手の人格を否定することです。裁くなら、わたしたちの共同体、教会や家庭、学級などは分裂し、崩壊してゆくでしょう。ゆるすことによってしか、わたしたちは一つになることができないのです。
 ゆるしの一つの具体的な例は、子どもをゆるすということです。幼稚園の若い先生たちから、「ゆるしや愛について学んだけれど、どうしても教室では子どもたちをガミガミ叱りつけてしまう。どうしたらいいのでしょう」という相談を受けることがあります。若い先生たちが陥りがちな間違いは、子どもたちを自分の思ったとおりに動かし、教室を支配しようとすることです。子どもたちを自分の思ったとおりに動かしたいと思っているからこそ、思った通りにならないと腹が立ち、つい厳しいことを言ってしまうのです。先生が感情的になれば、子どもは萎縮したり、反発したりしますから、その教室の雰囲気はどうしても重苦しくなります。
 ベテランの先生には、そういうことがありません。「子どもたちが自分の思ったとおりに動かなかったとしても、そんなのは当たり前」と、よくわかっているからです。ベテランの先生たちは、どんなことが起こっても感情的になることがありません。冷静に受け止め、問題を解決するために一番適切な声かけをしてゆきます。そのような先生の教室は、先生の温かな愛の中で、一つに結ばれていることがはっきりとわかります。
 これは、幼稚園の教室に限らないでしょう。家庭でも、職場でも、教会でも、どこでも当てはまることだと思います。大切なのは、家族や部下、仲間などが自分の思った通りに動かなくても、そんなことは当たり前だ思えるようになることです。自分の思ったとおりにならない相手をあるがままに受け入れ、相手のために何ができるかを考えること。それこそ、相手をゆるすということであり、相手を愛するということなのです。ゆるすこと、愛することを実践し、一つになってゆくことができるよう神様に助けを願いましょう。
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