バイブル・エッセイ(443)『罪と罰』


罪と罰
モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」(ヨハネ3:14-21)
「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている」とイエスは言います。いずれにしても、イエスは人を裁くために来たのではない。その人を裁くのは、むしろその人自身だというのです。この言葉の中に、キリスト教における罪と罰の意味が凝縮されているように思います。
 罪とは何かということを、創世記に遡って考えてみたいと思います。創世記には、土くれに神の息、すなわち神の愛が吹き込まれたとき、その土くれは生きる人間となったと書かれています。心を神の愛で満たされることによって、人間は初めて人間になったのです。心が神の愛で満たされているときにこそ、人間は「きわめてよい」ものであり、喜びと力に満たされて生きることができるのです。
 愛は、性質上、一度もらってそれを蓄えるということはできません。神の愛を受け取り、神を愛するという交わりを断ってしまえば、その瞬間、神の愛はわたしたちの心から消えてしまうのです。神との愛の交わりを保ち、神の愛に心を満たされて生きるときにだけ、わたしたちは幸せに生きることができます。
 ところが、人間は欲望の誘惑に負けて、神を裏切ってしまうことがあります。自分の欲望を満たすために「禁断の木の実」に手を伸ばし、もぎ取ってしまうのです。欲望を満たすために、してはいけないと分かっていることをしてしまう。それこそが罪だと言っていいでしょう。罪を犯し、神の愛を裏切ると、人間と神との間にあった愛の交わりは消えてしまいます。わたしたちの心を満たしていた神の愛が消え、その代わりに大きな空洞が現われるのです。欲望を満たすことによって、わたしたちは心に大きな虚しさを抱え込むことになるのです。
 心の虚しさは、大きな苦しみを生みます。何を食べても、何を着ても、どこへ行っても、心の底から喜びを感じることができなくなってしまうのです。生きる意味が感じられなくなり、生きる喜びや力はしだいに消えてゆきます。これが、罪を犯したことによって与えられる罰です。欲望に引きずられて神の愛を裏切ることこそ罪であり、そのときわたしたちの心に生じる虚しさこそが罰なのです。
 心に空洞ができると、その空洞から悪魔がわたしたちの心に入ってきます。そして、「お前の心が満たされないのは、まだ足りないからだ」と囁くのです。もっとたくさん物を手に入れば、偉くなれば、有名になれば幸せになれると、悪魔はわたしたちを誘惑します。神の愛を裏切るという最初の罪を犯した人は、この誘惑に乗り、際限のない罪の泥沼に落ちてゆくことになります。
 神の愛を拒むなら、そのこと自体が裁きであり、罰であるということを忘れないようにしたいと思います。神の愛に心を満たされて、喜びと希望に満ちあふれた日々を生きるか。それとも、神の愛を拒んで苦しみの闇に身を投じるか、選ぶのはわたしたち自身なのです。