バイブル・エッセイ(793)裁くためではなく、救うために


裁くためではなく、救うために
モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」(ヨハネ3:14-21)
「人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている」とイエスは言います。だから、闇の中にとどまっている人たちを改めて裁く必要はないのです。イエスは、闇の中にとどまっている人たちを裁くためではなく、救い出すために来られたのです。
 闇の中にとどまり続けている人に対して、私たちはつい腹を立て、相手を裁いてしまいがちです。そんなとき、その人はもう十分に裁きを受けているのだということを、忘れないようにしたいと思います。たとえば、何でも人のせいにして、自分の落ち度をまったく認めない人。他人の欠点を見つけて悪口ばかり言っているような人は、多くの場合、周りの人たちから浮き上がり、孤立しています。誰も認めてくれる人がいないからこそ、他人の悪口を言うことによって何とか認めてもらおうとしているのです。そのような人たちは、結果としてますます煙たがられ、孤立を深めてゆきます。愛を求めているのに誰からも愛してもらえない、その苦しみこそが、闇の中にとどまったことへの裁きであり、罰なのです。
 闇の苦しみの中であがいている人たちを、わたしたちが改めて裁く必要はありません。わたしたちに与えられた使命は、神の子でありながら闇の中に落ちてしまったその人を、光の中へと連れ戻すことなのです。腹が立つし、いらいらするかもしれませんが、それは人間の弱さから出た感情。それに引きずられることなく、自分に与えられた使命、人々に神様の愛を伝える使命にとどまりつづけることが大切です。
 腹が立って仕方がないときには、イエスが、わたしたちに対してどれほど忍耐強く、寛容であるかを思い出したらいいでしょう。イグナチオの『霊操』の中に、自分の罪を振り返り、これほどの罪びとを神が今日まで生かし続けてくれたことに感謝する黙想があります。実際、もし神様がお怒りになれば、いまこの瞬間にもわたしたちの足元の地面が裂け、呑み込まれてしまっても仕方がないという部分が、わたしたちにはあります。もし誰かを厳しく裁きたくなったら、神様が自分を同じ基準で裁いたらどうなるかと想像してみたらいいでしょう。
 わたしたちの心は、つい闇の中に落ちて行ってしまいがちです。他の人を踏みつけにしても自分の生活を守りたい。自分の思った通りにならない人は排除したい。そのような気持になり、自分を正当化し始めるとき、わたしたちは闇の中にいます。愛の中にとどまり、自分を差し出すとき。自分の思った通りにならない相手をゆるすときにこそ、天国からの光がわたしたちの心に射しこむのです。わたしたちに与えられた使命は、裁くことではなく、人々をイエス・キリストの名において救いへと導くこと。そのことを忘れないようにしましょう。