神様への愛を貫く
「あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」(マタイ21:28-32)
「いやです」と言ったけれど、後で考え直して出かけた兄と、「承知しました」と言ったのに、実際には行かなかった弟。父親の望み通りにしたのは兄の方だとイエスは言います。神の望みのままに生きたのは、口先だけの弟ではなく、悔い改めて真心から行動した兄の方だというのです。
ぶどう園の働き手になるかならないかということで、わたしは、このたとえ話を聞いて司祭召命を連想しました。司祭召命でも、ときどき似たようなことがあります。「わたしは神父になります」とあちこちで言っていた人が、結局、いつまでたっても神学校に入らなかった。逆に、どんなに誘われても「わたしは絶対に神父なんて無理です」と言っていた人が、何かのきっかけで神父になることを決意し、立派に神父になった。そのようなことがときどきあるのです。
あちこちで「わたしは神父になる」と言っていた人は、もしかすると、神様のみ旨ではなく、自分がよく見られることを考えていたのかもしれません。神父になればみんなから好かれるし、尊敬されると思って「神父になる」と言うけれど、実行に移すとなると一生がかかっているのでなかなか決断できない。ぶどう園に行って働くと言ったのに、結局、行かないまま終わってしまう。そのようなことは、十分にありうると思います。
逆に、「わたしは絶対に神父なんて無理です」と言っていた人は、神父になることの大変さをよく知り、自分の弱さもよく知っているので「無理だ」と言った。しかし、何らかの出会いや体験を通して、自分が神父になることが神様のみ旨であると知り、考え直して神父への道を歩み始めた。ぶどう園に行かないと言ったのに、あとで考え直して働きに出たのです。それも、十分にありえます。このようなプロセスをたどった人は、最初の決意が固いので、司祭職を生涯まっとうすることも多いようです。
もちろん、「わたしは神父になる」と宣言して実際に神父になる人もいますから、一概には言えません。大切なのは、神様への愛の深さだと思います。もし神様のことを思わず、自分のことを考えて「働きに行く」と言っているなら、その言葉が実現することは決してないでしょう。神様のぶどう園での働きに生涯を捧げるということは、それほど生易しいことではなく、神様への愛がなければ決して実行できないのです。「これは間違いなく神のみ旨だ。これを実行しなければ神様を悲しませることになるし、自分自身も決して幸せに生きることはできないだろう」と固く決意し、神様への愛を貫く人だけが、ぶどう園での厳しい仕事につくことができるのです。
これは、司祭職だけに当てはまることではないでしょう。ぶどう園は教会だけでなく、あらゆる場所が刈り取りの場だからです。神の愛の種はすべての人の心に蒔かれ、収穫のときを待っているのです。わたしたちは、それぞれの場で、収穫の作業をしているでしょうか。「いまは忙しいので」とか「そのうちやります」と言って、洗礼や堅信のときの約束を先延ばしにしていないでしょうか。神への愛に駆られ、収穫のための働きができるよう、心を合わせて祈りましょう。