バイブル・エッセイ(879)救いの地平

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救いの地平

 イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(ルカ19:1-10)

 いちじく桑の上から人々を見下ろしているザアカイに向かって、イエスは「急いで降りて来なさい」と語りかけました。「降りてきなさい」というのは象徴的な言葉です。ザアカイはこれまで、徴税人として、金持ちとして人々を高い所から見下ろすような生き方をしてきたのかもしれません。そしていまも、木の上から人々を見下ろしている。その高い所から降りてきなさい。イエスはザアカイにそう呼びかけているようにも思えます。

 先日行われたアマゾン住民のためのシノドス(代表司教会議)の席で、フランシスコ教皇が出席者を注意する場面がありました。アマゾン住民の代表者たちが、鳥の羽で作った彼らの帽子をかぶって議場に現れたときのことです。教皇は、その帽子を見て出席者の何人かが笑っているのに気づきました。教皇は深く心を痛め、挨拶の中で次のように言ったそうです。「あなたたちが被っている帽子と、この人たちの帽子のどこが違うのですか」

 フランシスコ教皇は、いつも人々と同じ高さに立ち、人々と共に苦しみを共有し、人々共に祈ることを心掛けて生きて来られた方です。教皇にとって、自分たちと違った文化を生きる人たちを見下し、笑うということは、きっと耐え難いことだったに違いありません。そのような態度を捨てない限り、教会に未来はない。教皇は、きっとそう思われたに違いありません。

 わたしたちの心の中にも、自分と違った文化、違った考え方、違った生き方を見下す部分がないか、注意深く見つめ直す必要があるかもしれません。キリスト教の方が優れている、ヨーロッパの洗練された文化に近い自分たちの文化の方が優れている、そのような態度を取っている限り、わたしたちはいつまで立っても周りの人たちと同じ高さに立つことができません。同じ高さに立って、対等に話し合うことができないのです。

 対等に話し合うことができないということは、つまり相手との間に真実の関係を結ぶことが出ないということです。相手に共感し、相手の苦しみや痛みを自分自身のこととして担い、一緒に涙を流しながら神に助けを願う。そのような真実の関係を結ぶことができないのです。相手とのあいだに、愛の絆を結ぶことができないと言ってもいいでしょう。それでは、いつまでたっても神の愛を伝えることはできないし、自分自身も神の愛に触れることがでません。神は、わたしたちが互いに愛し合うとき、わたしたちのあいだにおられる方だからです。

 高い所から降りて来ようとしないザアカイに、イエスは「ぜひ、あなたの家に泊まりたい」と声をかけました。ザアカイとの間に、まったく対等な交わりを結ぼうとしたのです。この言葉を聞き、木から降りる決断をしたとき、ザアカイに救いが訪れました。イエスとの間に結ばれた確かな愛の絆が、ザアカイを救ったのです。イエスはいつでも、苦しんでいる人びとと共におられます。イエスがおられる高さにまで降り、そこで救いとであうことができるように祈りましょう。