バイブル・エッセイ(370)ザアカイの気づき


ザアカイの気づき
 エスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは、皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」 しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(ルカ19:1-10)
 イエスはザアカイの家を訪れ、「今日、救いがこの家を訪れた」と宣言しました。興味深いのは、その宣言のタイミングです。「救いが訪れた」ということが、単に「イエスが訪れた」という意味であれば、イエスが家に足を一歩踏み入れたときに宣言するべきでしょう。ところが、イエスが救いを宣言したのは、ザアカイが「わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と誓ったときだったのです。つまり、ザアカイがこれまで無視してきた貧しい人々の痛みに気づき、彼らと財産を分かち合いたいと思ったとき、自分がこれまで苦しめてきた人々の痛みに気づき、何とかして償いたいと思ったとき、ザアカイに救いが訪れたのです。
 徴税人であったザアカイは、もしかするとそれまで、自分の財産を増やすことしか考えずに生きてきたのかもしれません。貧しい人たちのことや、自分が金持ちになるために犠牲になった人たちのことなど、思ってもみなかったのです。ところが、財産は彼を幸せにすることがなかったようです。どれほど財産を持っても、何かが物足りない。それどころか、心がますます空虚になっていく。そのような苦しみの中で救い主のうわさを聞き、なりふりかまわずイエスに近づいた。そんな風に想像してもいいでしょう。
 イエスと出会ってあふれるほどの慈しみで満たされたザアカイ、財産への執着から解放されたザアカイに、2つの気づきが与えられました。一つは、食べる物や着る物、住むところもなく苦しんでいる貧しい人たちの痛みへの気づきです。身近にいながらこれまで無視してきた人たちの痛みに気づき、その痛みに心を開いたとき、ザアカイはその人たちのために何かをせずにいられなくなりました。そこで「財産の半分を施します」と誓ったのです。もう一つは、自分が苦しめてきた人たちの痛みへの気づきでした。自分のことしか考えず、踏みにじってきたそれらの人たちの痛みに気づき、その痛みに心を開いたとき、ザアカイはその人たちに謝罪し、償いをせずにいられなくなりました。そこで「だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と誓ったのです。「貧しい人たちのために何かせずにいられなくなった」、「自分が苦しめてきた人たちに謝罪し、償いをせずにいられなくなった」ということは、つまりザアカイの心に貧しい人たちや隣人たちへの愛が生まれたということです。ザアカイの心に愛が生まれた瞬間こそ、「救いがこの家を訪れた」瞬間だったのです。
 このザアカイの2つの気づきを、しっかり心に刻みたいと思います。そして、もし財産や地位、名誉、権力などを追い求めて疲れ、心に虚しさを感じて救われたいと思ったなら、ザアカイの気づきを思い出しましょう。わたしたちの周りに貧しい人、孤独なお年寄りや訪ねてくる人のいない病人などはいないでしょうか。もしいるならその人たちの痛みに心を開きましょう。心を開いて、その人たちのために何かせずにいられなくなったら、そのときわたしたちの心に救いが訪れるでしょう。わたしたちは、自己中心的な言動によって誰かを苦しめなかったでしょうか。もし苦しめたのなら、その人たちの痛みに心を開きましょう。心を開いて、その人たちに謝罪し、償いをせずにいられなくなったら、そのときわたしたちの心に救いが訪れるはずです。
 人々の苦しみに気づき、その苦しみに心を開くとき、わたしたちの心にイエスがやって来られます。誰かの苦しみを受け止め、その人のために何かせずにいられなくなるとき、わたしたちの心が愛で満たされるとき、そのときこそ「救いがこの家を訪れる」ときなのです。人々の苦しみに敏感になることから、救いへの道を歩き始めましょう。
※写真…六甲山、徳川道にて。