バイブル・エッセイ(782)光の中を歩む


光の中を歩む
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。 (ヨハネ1:1-5、10-14)
「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」とヨハネは言います。イエス・キリストがやって来て、暗闇の中で迷い、苦しんでいる人たちを照らそうとしたのに、人々は暗闇の中から出てこようとしなかったということでしょう。暗闇の中に生きる人たちは、キリストの言葉、キリストの愛に心を開くことができなかったのです。
 そもそも暗闇とはなんでしょうか。それは、人間が心を閉ざし、神の愛の光を遮ることから生まれる心の闇だと言っていいでしょう。持っているものを失うことを恐れ、自分を守ろうとして神の愛に心を閉ざすとき、わたしたちの心に闇が生まれるのです。
 トルストイの民話の中に、こんな話があります。小雪が舞い散る冬の日の夜、靴屋セミョーンが道を歩いていると、裸の青年が教会の前に倒れていました。セミョーンは「これはきっとよくない人に違いない。襲われてもいけないから通り過ぎよう」と思いました。ですが、裸の青年を見るとやはりかわいそうな気がします。「お前はいけないことをしているぞ、セミョーン。かわいそう人が倒れているのに、黙って通り過ぎるなんて。襲われるのがそんなに怖いのか。お前に取られて困るものなんかあるのか」セミョーンは自分にそう言い聞かせると、倒れている裸の男に近づき、自分のコートを着せてやりました。倒れていた男は、実は天使でした。しばらくしてから、天使はセミョーンに言いました。「あなたが通りかかったとき、初めあなたの顔は真っ暗でした。ところが、通り過ぎようとしたとき、突然あなたの顔が輝き始めたのです。」
 セミョーンが、お金や命を取られることを恐れ、自分を守ろうとして愛に心を閉ざしているとき、セミョーンの顔は、厳しく暗い表情だった。恐れを捨て、神の愛に心を開いたとき、倒れて男に助けの手を差し伸べようとしたとき、セミョーンの顔は明るく輝き始めたということです。この話は、何が闇で何が光なのかがはっきり教えてくれます。自分を守ろうとして愛の招きを拒むとき、わたしたちの心に闇が生まれ、神にすべてを委ねて愛の招きに応えるとき、わたしたちの心に光が宿るのです。
 「恐れるな。キリストのために、心のドアを大きく開きなさい」と、かつてヨハネ・パウロ2世は呼びかけました。苦しみの中で助けを求めている人たちに、彼らの中におられるキリストに心を開きなさいということです。苦しんでいる人たちを見捨ててまで、守るべきものがわたしたちにあるのでしょうか。愛以上に大切なものがあるのでしょうか。愛を失えば、たとえすべてのものを持っていたとしても、わたしたちの人生は光を失ってしまいます。恐れと不安にさいなまれながら、暗闇の中を生きるしかなくなってしまうのです。恐れを捨て、神の愛に心を開くとき、キリストに向けて心のドアを開くとき、わたしたちの心は喜びと安らぎで満たされます。天の国を目指して、光の中をまっすぐ歩くことができるようになるのです。恐れに駆られて暗闇に落ちることなく、神の愛を信頼して光の中を歩き続けられるよう、このクリスマスに心から祈りたいと思います。