バイブル・エッセイ(1002)神の子の栄光

f:id:hiroshisj:20211225150340j:plain

神の子の栄光

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。(ヨハネ1:1-5、9-14)

 わたしたちの間に宿られたことば、イエス・キリストの栄光を「わたしたちは見た」とヨハネは言います。しかし、その栄光は、きらびやかな地上の栄光ではありませんでした。イエス・キリストの栄光は、「父の独り子としての栄光」であり、「恵みと真理に満ちた」ものだったのです。

 イエスの生涯を振り返るとき、そこにきらびやかな地上の栄光を見つけ出すことはできません。貧しい家畜小屋で生まれ、大工として地道に働き、時が来てからは野宿をしながら各地を周って福音を伝えたその生涯は、地上の名誉や権威とはまったく無縁のものだったのです。エルサレム入城のときだけ、ほんの束の間、人々の歓声を浴びますが、しかしその歓声は、まもなくイエスの処刑を求める人々の声にとって代わられたのです。イエスは常に貧しい服を着、質素な食事をしながら、人々の救いのためにひたすら働き続けたのです。

 その生涯の中に、きらびやかな地上の栄光はありませんでした。しかし、イエスの生涯には、たしかに神の子としての栄光がありました。自らも貧しい生活をしながら、社会の片隅に追いやられた人々のもとを訪ね、彼らの苦しみに寄り添うその姿には、確かに神の栄光が輝いていたのです。イエスと出会った人々はみな、イエスの中に輝く神の愛に出会い、そこに希望の光を見つけ出しました。イエスの中に神の愛を見た人は、イエスとの出会いを生涯忘れることがなかったでしょう。地上の栄光は人から与えられるものですが、天からの栄光はその人の内側から輝き出すものだと言ってもいいかもしれません。イエスのうちに燦然と輝く神の愛、それこそがイエスの栄光だったのです。

 神の子の栄光を輝かせて生きる人は、わたしたちの身の回りにもたくさんいます。たとえば、深刻な病名を告げられた夫に寄り添いながら、最後の瞬間まで夫に愛を注ぎ続けることを決意してこのクリスマスを迎えたご婦人。奥さんを亡くした深い悲しみの中にありながら、天国の奥さんと心を通わせ、周りの人々にやさしい笑顔を浮かべるご主人。最後まで、みんなの幸せのために何か自分にできることをしたいと願い、ご近所や教会の掃除を続ける高齢者。そのような人たち一人ひとりの中に、神の子の栄光が燦然と輝いています。人から称賛されることはないかもしれませんが、その輝きは天にまで届き、イエスやマリア、諸聖人、天使たちの歓声が天国に鳴り響くのです。地上の栄光は束の間に消えてしまいますが、天の栄光は永遠に消えることがありません。神の愛の中に、そして共に生きた人々の記憶の中に深く刻まれ、いつまでも残り続けるのです。

 わたしたちはつい、地上の栄光にばかり目を奪われ、地上の栄光を手に入れた人をねたんだり、互いに競争したりしてしまいがちです。しかし、本当の栄光は、そのようなところにはないのです。人から与えられる栄光ではなく、自らのうちから輝き出す栄光、神の子としての栄光をこの地上に輝かせることができるよう、心を合わせてお祈りしましょう。

youtu.be

※バイブル・エッセイが本になりました。『あなたはわたしの愛する子~心にひびく聖書の言葉』(教文館刊)、全国のキリスト教書店で発売中。どうぞお役立てください。

www.amazon.co.jp

books.rakuten.co.jp