バイブル・エッセイ(918)愛という栄養

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愛という栄養

 イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」(マタ13:24-30)

 毒麦を抜き取っておきましょうかという弟子たちに、イエスは「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」と答えます。「毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない」からというのです。この言葉に、人間の弱さを労わるイエスの慈しみが凝縮されているような気がします。よい麦と毒麦、よい人と悪い人は、見分けるのがとても難しいのです。

 本当はよい麦なのに、十分な手入れをされなかったためによい実を結べない。本当はよい人なのに、十分な愛を注がれず育ったためによいことができない。そんなことがよくあります。それを一番よく感じるのは、教誨師として受刑者の皆さんと接しているときです。彼らが世間でしでかしたことを聞けば、「これはひどい。毒麦だ」となってしまうかもしれませんが、実際に会ってみるとそうでもありません。確かに、わたしの教誨に出席する人の中には、はじめ暗い顔をして反抗的な態度の人もいます。ですが、そんな人でも2回、3回と出席するうちに、表情はだんだん明るくなり、楽しそうに話を聞き始めます。「何かができる、できないなんて関係ない。自分なりに精いっぱい頑張って生きているというだけで、あなたは本当に素晴らしい。あなたに会えて、わたしは本当にうれしい」、わたしが毎回、手を変え、品を変えして話すそんな話を、多分これまでの人生の中であまり聞いたことがなかったのでしょう。数年たって刑務所を出て行く頃には、別人のように明るくなっている人もいます。

 もちろん、わたしの教誨が果たしている役割は、ほんのわずかなものでしかありません。彼らを変えるのは、多くの場合、刑務所の外から手紙を書き続けてくれる親や子どもの存在であり、親身になってとことんつき合ってくれる刑務官たちの存在です。「お前が、どんなに素直でやさしい子か、お母さんはよく知っているよ。早くもとの〇〇ちゃんに戻ってね」と書いてくる年老いた母親の愛、ときには激しくぶつかることがあったとしても、受刑者を何とか立ち直らせたい一心でとことんつき合ってくれる刑務官の愛が、彼らを少しずつ変えてゆくのです。

 受刑者の中には、「こんなに親身に関わってくれる人に、初めて出会った」という若者もいます。中には、親からの虐待がひどく、幼稚園や小学校にも行かせてもらえなかったという若者さえいます。そんな彼らが、刑務所の中で明るい笑顔ややさしい心を取り戻してゆくのを見ていると、彼らが暴力や嘘などの悪い実を結んでしまったのは、これまで、愛という栄養を十分に注がれてこなかったからなのだと思わずにいられません。彼らは、毒麦ではなく、十分に栄養を与えられなかったよい麦なのです。

 これは、受刑者だけのことではないでしょう。わたしたち目から見て「毒麦」と見える人であっても、神様の目から見れば、本当はよい麦であるに違いありません。「根はいい人なのに」という言い方をよくしますが、すべての人はよい麦として生まれてきたのです。「毒麦」と決めつける前に、相手に十分な愛を注ぐことができるよう、よい麦を間違えて引き抜いてしまうことがないよう、謙虚な心で神に祈りましょう。

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