世界の本当の姿
イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。(ヨハネ9:1.6-9)
イエスが、盲人の目を開く箇所が読まれました。目を開く奇跡は、福音書の中にも度々登場する奇跡です。イエスは、見えなくっているわたしたちの目を開いてくださる方。わたしたちの心の目を開き、世界の本当の姿を見せてくださる方なのです。
新型コロナウィルスの流行によってさまざまな行事がキャンセルになり、公開のミサまで中止になるなど先の見えない状況が続いていますが、逆に、この流行によって見えるようになったこともあると思います。新型コロナウィルスの流行によって与えられた時間の中で、普段、目先のことに追われて見えなくなっている、大切なことが見えるようになってきたのです。
たとえば、先日、幼稚園の卒園式がありました。いつもなら、仕事に追われて、式が終わるとすぐ次に向かうというようなことが多いのですが、今年はゆっくり、最後の卒園児と保護者が門を出て、後片付けなどが終わるまでお付き合いすることができました。子どもたちともゆっくり別れを惜しみ、先生方ともゆっくりお話しすることができたのです。その中で、改めてわたしは、先生と子どもたちがどれほど深い絆で結ばれているか、先生方がどれだけ深い愛情を子どもたちに注いでいるかを実感することができました。確かに、わたしたちの園はキリスト教の園であり、先生と子どもたちとの間にはイエス・キリストがおられる。そう感じて、わたし自身の中でも幼稚園に対する思いがより深くなりました。
目先のことに追われて見えなくなっていることは、他にもあります。たとえば、教会の隣にある市立図書館の駐車場の桜の木です。この木は、毎年、他の桜よりも1週間ほど早く花を咲かせます。鳥たちが蜜を吸いに来るので、楽しみに見に行くのですが、いつもは忙しいので10分かそのくらいしか見ていることができません。ところが、今年は時間にゆとりがあったので、たっぷり1時間以上眺めることができました。その結果、花の美しさ、鳥たちのかわいらしさ、空の青さ、風の冷たさなどを、いつもよりたっぷり感じることができたのです。「この桜が、これほどまでに美しく、たくさんの命を養っているとは」と改めて目が開かれる体験でした。神さまの恵みは、桜の木にも、空の鳥たちにも、あふれんばかり豊かに注がれているのです。
目先のことばかりに気を取られて、見えなくなっていること。それは、見えることの背後にある神さまの愛ではないでしょうか。わたしたちの目は、よく見えているようでいても、一番大切なことが見えていないことが多いのです。新型コロナウィルスの大流行にあたって、ドイツのメルケル首相は国民に向けた演説の中で「わたしたちがどれだけ脆弱であるか、どれだけ他の人の思いやりのある行動に依存しているかをウィルスの蔓延は教えてくれます」と語りました。わたしたち一人ひとりは、助け合わずには生きられないくらい弱い存在である。それも、わたしたちが普段見失っている大切なことの一つでしょう。この困難なときを通して、イエスがわたしたちの目を開いてくださるように、普段、目先のことに追われて見えなくなっている、本当に大切なことに気づかせてくださるように祈りましょう。
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