バイブル・エッセイ(912)励まし合って生きる

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励まし合って生きる

兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。すべての聖なる者があなたがたによろしくとのことです。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。(二コリ13:11-13)

「喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい」とパウロは兄弟姉妹に呼びかけました。そうすれば、「愛と平和の神」がいつも共にいてくださる。三位一体の神が、いつも共にいて守ってくださるというのです。

「喜びなさい」とは、どんなときでも神への感謝を忘れるなということでしょう。神への感謝を忘れ、自分の力で、自分の思い通りにすべてを動かそうとし始めるとき、わたしたちは喜びを失い、不平不満を言い始めます。この世界には、自分の思った通りにならないことが無数にあるからです。神の前に跪き、すべてが自分の思った通りにならなかったとししても、今日1日、生かされていることだけで感謝する。衣食住が足り、家族が健康であることに感謝する。そのような時間の中で、わたしたちの心は喜びに満たされてゆきます。「喜びなさい」とは、神を思い出し、神に感謝しなさい。謙虚な心で生きなさいということなのです。

「完全な者になりなさい」とは、神のみ旨に反するようなことをして、神を悲しませるなということだと考えたらいいでしょう。何一つ間違いを犯すなということではありません。それは不可能なことであり、神は人間に不可能なことを要求しないのです。パウロが言う「完全な者」とは、間違いを犯したなら、すぐに過ちを認めて謝ることができる人。相手を容赦なく裁いて切り捨てるようなことをせず、むしろ相手の弱さを受け入れ、寄り添うことができる人のことだと考えたらよいでしょう。「完全な者」とは、謙虚な心で、神のみ旨のままに生きられる人のことなのです。

「励まし合いなさい」とは、希望を分かち合うということでしょう。単に、「頑張れ」「挫けるな」「わたしがついてるぞ」と互いに言い合うということではありません。どんなに苦しいことがあったとしても、わたしたちにはイエス・キリストがついている。神のみ旨のままに互いに愛し合い、苦しんでいる隣人たちに手を差し伸べようとし続けていれば、道は必ず開かれる。その確信、その希望を分かち合うということです。どんなに強い人でも、一人ぼっちでこの希望を持ち続けることはできません。共同体の愛の中で神の存在を感じるときにだけ、わたしたちはこの希望を持ち続けることができるのです。「励まし合う」とは、皆が同じ希望で結ばれるということ。「思いを一つにする」ことだと言っていいでしょう。

 一人ひとりが神の前に謙虚な心で生き、自分の思った通りにならない人や何か間違いを犯した人を受け入れ、希望を分かち合いながら思いを一つにして生きるとき、わたしたちの間に平和が実現します。つまり、目の前にどんな試練が立ちはだかったとしても、恐れや不安によって心を乱すことなく、乗り越えてゆくことができるようになるのです。

「喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい」というパウロの言葉は、いまこのコロナの時代を生きるわたしたちのために語られた言葉であるかのようにさえ思えます。この言葉を胸に刻み、互いに愛し合い受け入れ合う三位一体の愛の中で、この試練の時を乗り越えられるよう祈りましょう。

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