バイブル・エッセイ(813)隔ての壁を壊す


隔ての壁を壊す
「あなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」(エフェソ2:13-18)
 キリストは、「二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄した」とパウロは言います。キリストは十字架の上で、わたしたち人間のすべての罪をゆるし、わたしたちが罪びとでありながら、愛された神の子であることをはっきりと証してくださいました。規則や戒律を守ることによって自分が神の子であることを証明する必要などない、互いに競い合う必要などないということを、はっきり教えてくださったのです。
 それまで、律法学者たちは、規律を厳格に守ることによってのみ救われると考えていました。だからこそ、必死で律法を研究し、一点一画に至るまでそれを守ろうとしたのです。ですが、もはやそんなことをする必要がないということがわかりました。律法を守れなかったとしても、神はゆるしてくださる。わたしたちは、あるがままで神の子だということがわかったからです。そのとき、律法学者と、律法を守れずに「罪人」とされていた人たちのあいだにあった隔ての壁が消えました。すべての人が、罪びとでありながら神から愛された者として、神の愛の中で一つに結ばれたのです。誰もが罪びとであり、同時に愛された神の子である。互いにゆるし合い、助け合って共に生きなさい。それが、キリストがわたしたちに示した平和への道でした。
 わたしたちは、自分で勝手に「これは、こうでなければならない」と規則を決め、その規則で人を裁いてしまいがちです。その規則は、まず自分自身の中に隔ての壁を生み出します。「その規則を守れないような自分ではだめだ」と考えて今の自分を否定し、自分自身を裁いてしまうのです。自分で勝手に作った規則で自分を裁き、自分を否定して苦しむ。まったく愚かなことに思えますが、わたしたちはそのようなことをしてしまいがちなのです。さらにその規則は、自分と他の人たちとのあいだにも隔ての壁を作ります。「自分は規則を守っているけれど、あの人たちは守っていない。わたしは正しいけれど、あの人たちは間違っている」と考え、相手を見下したり、競争したりし始めるのです。そんな規則など初めから存在しないのに、自分で勝手に正しい、間違っていると決めて争い始めるのですから、これもまったく愚かなことに思えますが、わたしたちはそのようなことをしてしまいがちなのです。
 キリストとは、わたしたちをそのような愚かさから解放してくださいました。そんな規則と関係なく、わたしたちは誰もが愛された神の子であり、自分を責める必要も、他人と競う必要もないと教えてくださったのです。仮に規則をすべて守れたとしても、神の前に自分の正しさを誇り、他人を裁ける人など誰もいません。キリストが十字架によって葬った律法や戒律を、わたしたちが蘇らせてしまうことがないように、キリストの示した平和への道をしっかり心に刻みましょう。