バイブル・エッセイ(1088)三位一体の喜び

三位一体の喜び

 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。(ヨハネ3:16-18)

「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」とイエスはいいます。イエスを信じるならば救われ、信じないならば救われない。自分から望んで救いを拒むなら、そのこと自体が裁きになっているということです。
 ここでイエスがいう「救い」とはどういうことでしょう。それは、わたしたちが三位一体の交わりの中にあるということだと思います。聖書を通してイエスの言葉に触れるとき、わたしたちは自分自身の心の中に、確かに父なる神の愛が宿っていること。自分が父なる神の愛の中に生きていることに気づきます。そのことに気づいて、「神さまは、こんなわたしでも愛してくださっている」と実感し、「よし、頑張って生きてゆこう」と思えたなら、それこそが救いなのです。キリストを通して父なる神の愛に触れるとき、わたしたちの心を満たす喜びと生きる力は聖霊の恵みですから、救いとはつまり、わたしたちが三位一体の交わりの中にいることに他ならないのです。
 イエスの言葉を忘れて地上の考え方に染まるとき、三位一体の交わりから切り離されていくとき、わたしたちの心に「こんな何もできないわたしには、生きている価値がない」とか、「生きていても仕方がない」というような思いが湧き上がってきます。三位一体の交わりから離れるとき、わたしたちは救いからも離れてしまうのです。そのこと自体が「裁きになっている」とイエスはいいます。「裁き」とは、神がわたしたちを裁くということではなく、わたしたちが自分自身で救いから離れ、苦しみの道を選ぶことなのです。
 三位一体の交わりは、目に見えない神さまとの間だけでなく、目に見える身の回りの人たちとの間にも生まれます。なぜなら、わたしたちの身の回りにいるすべての人の中に父なる神がおられ、イエス・キリストがおられるからです。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25:40)とイエスがいう通り、どんなに小さな者であったとしても、わたしたちは誰もが心の奥深くに父なる神の愛を宿しており、わたしたち一人ひとりの中にイエスがおられます。もしわたしたちが家族や友人、会社の同僚などとの交わりを断つなら、わたしたちはそのとき、三位一体の交わりから離れ、救いからも離れることになるのです。「励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます」(二コリ13:11)とパウロがいうのは、そのためなのです。身の周りの人たちと互いにいたわりあい、心を一つにして生きるときにこそ、わたしたちは三位一体の交わりの中で、救いの喜びを生きることができるのです。
 わたしたちの救いは、まさに三位一体の交わりの中にあります。三位一体の愛の中に生きるときにこそ、わたしたちは日々、喜びに満ちて、力強く生きられるのです。聖書を通した祈りの中で、日々の生活での隣人たちとの交わりの中で、三位一体の愛を生きられるよう祈りましょう。

youtu.be

※バイブル・エッセイが本になりました。『あなたはわたしの愛する子~心にひびく聖書の言葉』(教文館刊)、全国のキリスト教書店で発売中。どうぞお役立てください。

www.amazon.co.jp

books.rakuten.co.jp