バイブル・エッセイ(830)道を準備する

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道を準備する

皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」(ルカ3:1-6)

「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る」という言葉が読まれました。罪のゆるしを告げ、人々の心にイエスが通るための道を開くために、ヨハネが遣わされたということです。
 美祢社会復帰促進センターで昨日行われたクリスマス会で、ちょうどこの言葉と重なるような出来事がありました。センターのクリスマス会は、毎年、冷え込みが厳しくなり始めるこの時期に、寒々とした体育館にびっしり椅子を並べて行われます。クリスマスの讃美歌をみんなで歌い、牧師先生のお話を聞き、大学生たちによるハンドベルの演奏に耳を傾けるというとてもシンプルなクリスマス会です。今年は、来春転勤で10年以上通ったこの刑務所の教誨師をやめる年配の牧師先生が、半導体を例にとって、不完全で、中途半端だからこそできることがあるということを静かにお話しされました。それに続いて、学生さんたちが、心洗われるような澄んだ音色のハンドベルを、真心こめて演奏して下さったのです。演奏の途中、あちこちで、涙をぬぐう受刑者たちの姿が見られました。最後にわたしが祝福の祈りのために前に立った時には、多くの受刑者の顔が晴れ晴れとし、喜びで満たされているのがよく分かりました。
 そこでわたしは、こんな話をしました。「クリスマスは、2000年前にイエス・キリストが生まれたことを祝う日ですが、それだけでなく、今日、わたしたちの心にイエス・キリストが生まれたことを祝う日でもあります。牧師先生の話やハンドベルの演奏を聞いているあいだに、安らぎや温もり、もう一度やり直せるのではないかという未来への希望、生きてゆくための力などが、心に湧き上がってくるのを感じた方も多いでしょう。皆さんの心に生まれたそのようなものが、実はイエス・キリストなのです。皆さんの心にイエス・キリストが生まれた今日は、まさに皆さんのクリスマスです。このまだ小さなイエス・キリスト、小さな希望、勇気、力を心にしっかりと宿し、大切に育てていってください」。
 このクリスマス会で、ヨハネの役割を果たしたのは、引退間近の牧師先生であり、ハンドベルを演奏した学生さんたちでした。彼らの労りと愛情に満ちた言葉、受刑者の皆さんのために真心をこめてした演奏が、受刑者の皆さんの心の中にあった山や丘を平らにし、曲がりくねった心をまっすぐにして、イエス・キリストのために道を整えたのです。イエスはその道を通って受刑者一人ひとりの心に入り、一人ひとりの心を希望や勇気、力で満たしました。
 わたしたちも、そのようにしてヨハネの役割を果たしてゆきたいと思います。強引な宣教や相手を責めるような厳しい言葉では、イエスのために道を準備することができません。神はすべての罪をゆるし、あらゆる人間を受け入れて下さる。わたしたちはただ、悔い改めさえすればよいのだと真心を込めて伝えることによってこそ、わたしたちは荒んだ心に道を切り開くことができるのです。それぞれの場で、ヨハネの役割を果たし、クリスマスの準備をしてゆきましょう。