バイブル・エッセイ(884)喜びの訪れ

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喜びの訪れ

ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」(マタイ11:2-6)

「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う」、イザヤこの預言がイエスによって文字通り実現している。イエスこそ、わたしたちの救い主なのだ。今日の福音の箇所は、わたしたちにそのことを確信させてくれます。病を癒され、力を与えられ、イエスの周りに次々と広がってゆく喜びの輪。それこそ、イエスが救い主であることの証だと言っていいでしょう。

 イエスが来るとき、それがどんな場所であったとしても、そこには必ず喜びが生まれます。わたしは昨日、まったく違う二つの場所でクリスマス会をしましたが、そのどちらにもイエスがいたと確信しています。なぜならそこに、喜びがあったからです。

 一つの場所は幼稚園でした。昨日は、卒園児のためのクリスマス会があったのです。久しぶりに幼稚園に来て、「かみさまのおはなし」を聞いた子どもたちは、とてもうれしそうにしていました。「一人ひとりがとても大切ないのち。かけがえのない神さまの子どもなんだよ」という話を、久しぶりに聞いたからでしょう。子どもたちの笑顔を見たとき、子どもたちの心にイエスがやって来たことを、わたしは確かに感じました。

 もう一つの場所は刑務所でした。昨日は午後から、刑務所でもクリスマス会があったのです。クリスマス会と言っても刑務所ですから、お菓子や飲み物が出るというわけではありません。寒々とした体育館に集まって、聖書の言葉を聞き、学生たちのハンドベルの演奏に耳を傾けるというだけのことです。ですが、そんな簡素なクリスマス会の間にも、受刑者の皆さんの顔に喜びの笑顔が浮かぶことが何回かありました。引退間際の老牧師が、受刑者たちに優しく語りかけているとき、学生たちが一生懸命にハンドベルを操り、演奏しているとき、受刑者たちの顔には、確かに喜びの笑顔が浮かんでいたのです。それはきっと、「自分のために、こんなにも親身になってくれる人がいる。神さまは、まだわたしを見捨てていない。わたしの人生には、まだ希望がある」という喜びだったのではないかと思います。受刑者たちの笑顔を見たとき、わたしはこの刑務所にも、確かにイエスがやって来たと感じました。

 イエスがやって来るところには、必ず喜びがあります。いまはまだ待降節ですが、クリスマスになれば、今年もわたしたちのところにイエスが来てくださるのは確かなことです。「こんなわたしのところにさえ、イエスは今年も来てくださる」と思えば、わたしたちは自然と笑顔になり、イエスを迎えるのにふさわしい人間になろうと努力を始めるでしょう。喜びのうちに、イエスを迎えるための準備をするための期間。それこそが待降節なのです。子どもたちのように素直な心で、受刑者の皆さんのように、自分の弱さを知る謙虚な心で、イエスの到来を待ち望みましょう。