バイブル・エッセイ(920)惜しみなく与える人

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惜しみなく与える人

 イエスは(洗礼者ヨハネが死んだこと)を聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。(マタイ14:13-21)

 群衆を解散させ、自分で食べ物を買いに行かせようとした弟子たちに、イエスは「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」と言いました。弱りはてた羊の群れのような人々の姿を見て深く憐れんだイエスは、たとえわずかであっても人々に何か食べさせてあげずにいられなかったのです。いわゆる「パンの増やしの奇跡」は、人々を思うイエスの愛が起こした奇跡だと言っていいでしょう。

 人に何かを配るのが大好きな人がいます。たとえば、マザー・テレサがそうでした。マザーは、いつも「不思議のメダイ」や何種類もの祈りのカードを持っていて、出会う人たちにせっせと配っていました。せっかく来てくれた人に、何か上げずにはいられないという感じでした。特に大きな悲しみを抱えて相談に来た人には、これまでにいろいろな人からもらったものを貯めてある引き出しに取りに行き、ごそごそ探して「ああ、これがちょうどいい」などと言いながらロザリオやご像を取り出してくることもありました。わたしの手元にも、そんな風にしてマザーからもらったカードやメダイなどがたくさんあります。何しろ、マザーは、会うたびに何かをくれる人でした。

 わたしたちの身近にも、そんな人はいると思います。「孫が来たら、これを上げよう、あれを食べさせよう」などと考え、何日も前から準備しているおばあさんの姿は、ちょうどマザーにそっくりです。上げるもの一つひとつは、簡素なものでかまいません。たとえば、マザーが配っていたメダイはステンレス製の小さなものでしたし、カードは、おそらくカルカッタの町工場で印刷してもらったんだろうなと思われる簡単な印刷物でした。ですが、それらのメダイやカードの一つひとつには、あふれんばかりのマザーの愛が込められていました。受け取った人は、メダイやカードだけでなく、そこに込められたマザーの愛を受け取り、その愛で胸をいっぱいにしたのです。

 お腹を空かせた人々を見て、弟子たちは「自分で村に食べ物を買いにゆけばいい」と考えました。これは、世間の常識というものでしょう。ただで食べ物がもらえるほど、世の中は甘くないのです。ですが、イエスは、そのような常識を覆す人でした。助けを求めてやって来る人に、何かを与えずにいられない人だったです。言葉や行いを通してイエスからあふれ出した愛は、人々の心を神の愛で豊かに満たしました。イエスから何かを受け取った人は、たとえそれがわずかなものだったとしても、そこに込められた無限の愛で心を満たされたに違いありません。

 惜しみなく与えるならば、どんなささやかなものも、命のパンに変わります。愛という栄養がたっぷり詰まった、命の糧に変わるのです。たとえば、わたしたちの時間。助けを求めてやって来た誰かのために惜しみなく割くなら、わずかな時間でも、栄養豊かな命のパンに変わります。あるいは、真心を込めた言葉や、一通のハガキでもいいでしょう。どれほど与えても、わたしたちの心にある愛が尽きることはありませんし、命のパンがなくなることもありません。むしろ、与えれば与えるほど、愛は大きくなってゆくのです。イエスの模範にならい、惜しみなく与える人になれるよう祈りましょう。

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