バイブル・エッセイ(388)「愛のパン」


「愛のパン」
 エスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。(マタイ4:1-14)
「人はパンだけで生きるものではない」というのは確かだと思います。どんなに物質的に満たされたとしても、人間は、それだけでは生きていくことができないのです。そのことを、20世紀において一番はっきり主張したのがマザー・テレサでした。「人間にとって一番ひどい飢えは、誰からも必要とされていないと感じることです」とマザーははっきり言っていました。パンの飢えよりももっとひどい飢え、それは、誰からも必要とされず、誰からも愛されていないと感じることなのです。どれほどパンがあったとしても、誰からも必要とされず、誰からも愛されないなら、わたしたちは生きていくことができないのです。
 ですから、マザーはパンを運ぶことよりも、むしろ愛を運ぶことこそ自分たちの使命だと考えていました。ただ食べ物や衣類、薬品などを配るだけでなく、貧し人々と同じ生活をしたのはそのためです。マザーは、貧しい人々と同じ生活をし、貧しいと同じ苦しみを味わい、貧しい人々と同じ視線に立つことから愛を始めたのです。人々に寄り添いながら、「だいじょうぶ、一緒にがんばりましょう。神様はわたしたちと共にいてくださいます」と言って人々を励まし続けたのです。温もりに満ちたその言葉の一つ一つ、彼女たちの浮かべる優しい笑顔や親切な行いの一つ一つが、「愛のパン」となって貧しい人たちの心を満たしてゆきました。道端で倒れていた人たちは、十分な栄養を与えられて体の力を取り戻し、愛を与えられて生きる力を取り戻したのです。
 これは、イエス様がしたこととまったく同じです。イエスはパンを増やして人々に配ったり、病を癒したりする人ではありませんでした。それ以前に、罪人と呼ばれ、当時の社会から相手にされていなかった人々のもとに出かけてゆき、彼らに寄り添った方でした。人々の苦しみを共に担いながら「神の国は近づいた」と人々を励ます言葉の一つ一つ、そして、いたわりと温もりに満ちた存在そのものを、「愛のパン」として人々に配った方だったのです。イエスと出会った人は、体の健康を取り戻しただけでなく、「自分は愛されている」と感じ、「こんなにも愛されているのだから、がんばって生きていこう」と思ったに違いありません。
 イエス様と同じように、マザーと同じように、わたしたちにも「愛のパン」となる使命が与えられています。わたしたちの言葉と行いの一つひとつを、「神の口から出る言葉」すなわち「愛のパン」にしてゆくこと、それがわたしたちの使命なのです。そうすることでのみ、わたしたちはこの地上の一番ひどい飢え「わたしは誰からも必要とされていない」と感じる飢えを癒すことができます。
 そのために、まずミサの御言葉の食卓、聖餐の食卓で、わたしたち自身がイエス様から「愛のパン」をたっぷりいただきたいと思います。食べきれないほどたくさんの愛をいただいて、お腹もいっぱい、心もいっぱいになったとき、わたしたちの存在そのものが「愛のパン」になります。わたしたちの心に妬みや悪意、いらだち、傲慢のパン種が残っているなら、取り去っていただきましょう。わたしたちから人々に手渡されるものが、ただ「愛のパン」になるよう心から祈りたいと思います。
※写真…カルカッタにて。「死を待つ人の家」を訪れたマザー・テレサ