バイブル・エッセイ(921)イエスの声に耳を澄ます

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イエスの声に耳を澄ます

 イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。(マタイ14:22-33)

 湖の上を歩くイエスの姿を見て驚き、おびえている弟子たちに向かって、イエスは「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と語りかけました。夜明けの湖ですから、まだ相手の顔はよく見えなかったのでしょう。イエスは弟子たちに語りかけ、その声によって安心させようとしたのです。ペトロは、その声をはっきり聞き分け、イエスの方に向かって歩き出しました。ペトロは、強風の中でも、イエスの声を聞き分ける耳を持っていたのです。

 イザヤ書は、神の声は「静かにささやく声」だったと語っています。神は、嵐のように激しい声や、感情を燃え上がらせた炎のような声ではなく、「静かにささやく声」としてわたしたちに語りかけてくださる方なのです。ペトロが聞いたイエスの声も、きっとそんな声だったに違いありません。ペトロは、強風が吹きすさぶ湖面に耳を澄まし、その中から聞こえてくる静かな声を聞き分けました。だからこそ、何の疑いも抱かず、湖の上を歩くことができたのです。

 強い風が吹きすさぶ湖を、わたしたちの心と考えてもいいかもしれません。コロナ禍の先が見えない状況の中で、心に不安や恐れの強風が吹きすさぶことは、誰にでも起こりえます。そんなときこそ、わたしたちは、風の向こうからかすかに聞こえてくるイエスの声を聞き分けるために、耳を澄ます必要があるでしょう。イエスは、「来なさい。強風など恐れず、わたしに向かって歩き出しなさい」と呼んでおられます。耳を澄まして、その声をしっかり聞き取る必要があるのです。

 それは、祈るということでもあります。「神さま、あれをしてください、これをしてください」とお願い事をするのが祈りというイメージがあるかもしれませんが、祈りの基本は、耳を澄まして神さまのささやく声を聞くことです。神さまのささやく声に気づくとき、吹きすさぶ恐れや不安の嵐はぴたっと止み、心に凪が訪れます。これは本当に不思議なことですが、近づいてくるイエスの気配が感じられた瞬間に、心は穏やかな静かさに包まれるのです。パニックに陥って叫んでいては、イエスの気配に気づくことができません。恐れや不安に打ち勝って、イエスの呼ぶ声、やさしく語りかける愛の声にじっと耳を澄ます必要があるのです。

 イエスの声に従って歩いている限り、嵐の海だろうと険しい断崖だろうと、何も恐くはありません。コロナ禍の嵐が吹き荒れたとしても、ただイエスの声に従い、愛の指し示す道を歩いてゆけばよいのです。厳しい現実に恐れを感じ、祈るのをやめるとき、わたしたちは沈み始めます。そんなときは、「主よ、助けてください」とイエスに語りかけましょう。イエスは必ず「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言いながら、わたしたちを引き上げてくださるはずです。その声を聞くとき、わたしたちの心は再び穏やかな平和に包まれるでしょう。

 強い風が吹く湖の上で、風の向こうから聞こえてくるイエスの声に耳を傾けるペトロの姿を想像し、しっかり胸に刻みたいと思います。コロナ禍の逆風の中にあっても、イエスの声にしっかり耳を澄まし、その声に向かって歩いてゆくことができますように。

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