バイブル・エッセイ(922)恵みのパン屑

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恵みのパン屑

 イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。(マタ15:21-28)

「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と言うイエスに、このカナンの女性は、「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と答えました。多くは求めない。パン屑ほどの小さな恵みがあれば、自分たちには十分だというのです。謙虚な心は、ほんのわずかな恵みでも満たされる。逆に、多くを求める傲慢な心は、どれほどたくさんの恵みを与えられても満たされない。この話は、わたしたちにそのことを思い出させてくれます。

 先日、一緒に暮らしているバスク人の神父様が、90歳の誕生日を迎えました。本当は盛大にパーティーをしたかったのですが、コロナ禍の中でそれは自粛。一緒に住んでいる神父3人で、ささやかなお祝いをしました。何しろ90歳という大きな節目だということで、それなりの御馳走やケーキ、花などを準備したのですが、神父様が何よりも喜んだのは、教会の皆さんが準備してくれた誕生祝いのカードや、スペインから届いた手紙でした。神父様は届いた簡素なカードを食事の前後に何度も読み返し、うれしそうな顔をしておられました。高級ブランドの服とか何とか、そのような贈り物は一切なかったのですが、身近な人たちや懐かしい人たちから寄せられた愛と祝福、それだけで神父様の心は十分に満たされたようでした。

 高齢の司祭たちの生活は、本当に簡素です。特に何か大きな買い物をすることもないし、外食に出ることもありません。足腰も弱り、外出をすること自体が希です。それにもかかわらず、神父様方の顔には、いつも穏やかなほほ笑みが浮かんでいます。たくさんの恵みを与えられても「まだ足りない」と不満顔の、一緒に住んでいる比較的若い司祭、すなわちわたしとは大きな違いと言わざるを得ません。どうやら、高齢の司祭たちは、わたしの目には映らない何か特別な恵みを受けているようです。神父様方は、日々、天国の食卓からこぼれ落ちる恵みのパン屑で養われているに違いない。わたしはそう睨んでいます。神父様方の上には、いつも天国から射す清らかな光、穏やかな恵みの光が降り注いでいるのです。

 なぜイエスが、カナンの女性を「子犬」扱いしたのか、それはよく分かりません。ですが、何か目的があったとすれば、この女性が、恵みを受け取るのに十分な謙虚さを持っているか確かめるためだったと考えられます。感謝を知らない傲慢な心は、まるで穴の開いたバケツのようなもので、どんなにイエスが恵みを注いでも満たされることがありません。ですが、謙虚な心は、わずかな恵みも感謝して受け取り、わずかな恵みに満たされて救われるのです。会話を通して、カナンの女性が、恵みを受けとめることができる謙虚な心を持ち、救われる準備ができていると分かったからこそ、イエスは安心してこの女性に恵みを注いだのでしょう。わたしたちも、高齢の司祭たちのような謙虚な心、このカナンの女のような謙虚な心で、「主人の食卓から落ちるパン屑」ほどの恵みを願いましょう。

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