バイブル・エッセイ(175)神から与えられる力


神から与えられる力
 エスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。(ヨハネ6:5-14)
 フィリポの信仰を試みるため、イエスは「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われました。「人々を慰め、癒すための力を、あなたはどこから手に入れるのか」という意味でしょう。フィリポは自分たちが持っているお金で何とかしようと考えて、不可能だという結論に達しますが、イエスはそのような力は天から与えられるものだということを奇跡によってはっきりとお示しになりました。この奇跡は、救いのための力がどこから来るものなのかをわたしたちにはっきりと教えています。
 最近、わたしにもこのことを実感する体験がありました。今年3月、カルカッタを訪れたときのことです。今回は司祭として長期滞在しましたので、「神の愛の宣教者会」本部修道院のミサを司式する機会がたびたび与えられました。それ自体は大きな恵みなのですが、困ったのは説教でした。本部修道院には、マザー・テレサの後継者であるシスターや、マザーと共に60年に渡って貧しい人々に奉仕し続けてきたシスターなど錚々たる顔ぶれがそろっています。その人たちを前にして、駆け出し司祭のわたしが謙虚さや心の貧しさなどについて説教しなければならなかったのです。
 毎回、説教準備のために何時間も祈り、それでも思いつかないで苦しみぬきました。夜もよく眠れなかったくらいです。ですが不思議なことに、いつも当日の朝、本部修道院に到着して入り口にあるマザーの御像の前で「もうだめです、聖霊を送ってわたしを助けてください」と祈っているうちに話す言葉が与えられたのです。そのようにして準備したお説教は、毎回シスターたちにとても喜ばれました。
 この体験から学んだのは、わたしには人を慰めたり癒したりする力がないということ、わたしがすべきことは、出来る限りの準備をした上で、あとのすべてをイエスに委ねるだけだということでした。そのようにして、自分の持っているわずかなものをイエス様に全て差し出せば、あとはイエス様がそれを使ってすべてしてくださるのです。自分の力ではなくイエス様の力に信頼し、人々の救いのために自分の持っているすべてを差し出していく信仰が与えられるようにと祈りましょう。
※写真の解説…カルカッタ、「神の愛の宣教者会」本部修道院(マザー・ハウス)でのミサの様子。