バイブル・エッセイ(930)共に祝う

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共に祝う

「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。」(マタイ22:1-10)

「牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください」とまで言って招待したのに、招かれた人々は婚宴に来ようとしなかった。それが「天の国」のたとえ話だとイエスは言います。いったいどういうことでしょう。天国に招かれて、断る人などいるのでしょうか。

 婚宴というのは、若い2人が結ばれたことを祝い、新しい人生の第一歩を踏み出す2人を祝福するために行われる祝宴です。仕事が忙しいからといった理由で招待を断るなら、それは、「結婚する2人のことなんかどうでもいい」ということに他なりません。あるいは中には、「あんなろくでもない王の息子の結婚を祝えるか」と思っている人もいるかもしれません。いずれにせよ、招待を断った人たちには、息子の結婚を祝福したいという気持ちがなかったのです。

 この婚宴が天国の婚宴だとすれば、結婚するのは花婿であるキリストと、花嫁である教会ということになります。黙示録にあるように、キリストと教会の絆は、天国で行われる「小羊の婚宴」によって完成するのです。「小羊の婚宴」によって教会の救いが完成すると言ってもいいでしょう。婚宴に招かれるわたしたちは、キリストと結ばれる当事者であると同時に、教会の救いの完成を祝う客でもあるのです。そのような婚宴への招待を断る理由はいったい何でしょう。

 一つは、キリスト以外のものにまだ執着があるということだと思います。キリストと結婚する以上は、地上の他のもの、富や名誉、権力などとはきっぱり手を切り、ひたすらキリストについてゆく覚悟が必要です。その覚悟ができていない人、まだ他のものに未練がある人は、天国に招かれてもその招待を断ってしまうのです。

 もう一つ考えられる理由は、「自分が救われるのはいいが、自分に敵対してきた憎らしい連中まで救われるのはゆるせない」とか、「あんな貧しく罪深い連中まで招かれているのはゆるせない」と考えて、「そんな連中がキリストと結ばれることを祝う席に同席するなんて、まっぴらごめんだ」と招待を断ってしまうことです。ちょうど、「放蕩息子のたとえ話」で弟の帰還を祝う宴への出席を断った兄と同じで、神の愛を独占したい人、神の寛大さをゆるせない人は、せっかく天国に招かれてもその招待を拒んでしまうのです。

 世の終わりの「小羊の婚宴」を待つまでもなく、神様はわたしたちを日々、キリストの婚宴に招いておられます。地上のさまざまなものへの執着をきっぱり断ち切ってキリストを選ぶとき、自分に敵対する人も含めてすべての人が救われることを心の底から喜ぶとき、わたしたちはキリストと固く結ばれ、救いの宴を共に楽しむことができるのです。神様はわたしたちを一人残らず、全員、天国の宴へと招いておられます。その招きを自分から断ってしまうことがないよう、共に喜びのときを迎えることができるよう、心を合わせて祈りましょう。

※諸般の事情で、YouTubeによる音声での配信はしばらくお休みになります。