バイブル・エッセイ(361)喜んで末席に着く


喜んで末席に着く
 エスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(ルカ14:7-11)
 「招待を受けたら、末席に行って座りなさい」とイエスは言います。そう言われたからといって、あらゆる場合に末席を選んで座るのはよくないでしょう。例えば、地区長が地区評議会に出席して末席に座っていれば、信者さんたちが怪訝に思います。「そんなところに座ってはいけません。議長の隣に座って下さい」と信者さんが言うのを待っていて、「そうですか、じゃあ仕方がないなあ」と上の席に進めば面目はほどこせるでしょうが、あまり印象はよくありません。一番いいのは、その状況の中で自分が座るのにふさわしい場所を見極め、そこにさっと座ることだと思います。エスが言いたいのも、そういうことでしょう。天国の宴席に招かれたならば、自分に一番ふさわしい場所を選んで座りなさいということです。
 では、神の前に出るとき、わたしたちにとって一番ふさわしい座席はどこでしょう。はっきりしているのは、信仰が深まり、神のことを深く知れば知るほど、わたしたちは自分が神の前でどれだけ取るに足りない者かを知るようになるということです。神がどれほど大きな愛でわたしたち一人ひとりを包み込み、全人類を愛しておられるかを知れば知るほど、わたしたちは神の前で自分がどれだけ小さな存在かを知ることになります。また、神に心を開けば開くほど、聖霊の光に照らされれば照らされるほど、わたしたちは自分自身の罪深さに気づくことになります。神との出会いが深まれば深まるほど、わたしたちは自分の小ささ、罪深さを知って謙遜にならざるをえないのです。そのため、神との深い交わりを生きている人は、神の前に出るとき当然のように一番低い席を選ぶことになるでしょう。それは後で席を上げてもらうためではなく、神の前で自分の座るべき場所を知っているがゆえに、そうせざるを得ないことなのです。
 「どうせ、わたしなんかとるに足りない罪人だから」と卑屈になって末席に着くわけではありません。それとはまったく逆に、神を深く知り、自分のことをよく知っている人は、「こんなわたしが神の国の宴席に招かれるなんて」と思い、深い感謝のうちに大喜びで末席に着くことでしょう。神の恵みと光の中で自分のことをよく知っている人にとっては、自分が神の国に招かれたということ自体が奇跡的なことであり、上席であろうと末席であろうと感謝せずにはいられないのです。
 逆に、神の前で自分は上席に座るべき人間だと考える人、自分は人々の上に立つべき人間だと考える人は、まだ神を知らず、自分自身のこともよく知らない人です。その人は、まだ自分が偉大な人間であり、自分の力だけで人より優れたことを成しとげられると思い込んでいるのです。そのような人は、やがて自分の力の限界を突き付けられ、苦しみの中で自分が本当に座るべき場所を知ることになるでしょう。神の前では、「誰でも高ぶる者は低くされる」のです。
 神の国の宴席でわたしたちが座るべき場所、それはどんな場合でも末席です。たった一人の人の上にでも自分を置こうとするならば、その人は辱めを受けることになるでしょう。こんな取るに足りない自分が神の国の宴席に招かれた。神の国の宴席の末席にでも着かせてもらえる。そのことに心から感謝して、神の国の先取りである教会の中で、それぞれの家庭や職場で、喜んで末席につけるようになりたいと思います。
※写真…北アルプスの山道にて。