バイブル・エッセイ(931)神のものは神へ

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神のものは神へ

 ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(マタイ22:15-21)

「皇帝に税金を納めるのは律法にかなっているでしょうか」とファリサイ派の人々がイエスに尋ねる場面です。自らを神と称する皇帝に税金を納めるのは、偶像崇拝に当たるかもしれません。しかし、納税を拒否すれば反乱と見なされるでしょう。この難問にイエスは、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と答えました。皇帝に税金を納めるのではなく、もともと皇帝のものである銀貨を皇帝に返すだけなのだから、何も問題がないというのです。まるで一休さんのような、見事な答えといっていいでしょう。

 わたしたちも、日々、国に税金を納めています。ちょっと買い物に行けば消費税、どこかで謝礼をもらえば所得税、誰かが亡くなれば相続税など、さまざまな税金を、わたしたちは当然のこととして納めているのです。もし納めなければ、国や地方公共団体が提供してくれる様々なサービスを利用できなくなり、生活が成り立たなくなることを知っているので、納税を拒む人はほとんどいません。誰もが、納税は国民の義務であり、当然のことだと思っているのです。

 ではわたしたちは、神様から頂いたものを、そのくらい当然のこととして神様にお返ししているでしょうか。たとえば、神様から頂いたわたしたちの命。日々の生活の中で、わたしたちはどのくらいの時間を神様にお捧げしているでしょうか。感謝の祈りを捧げたり、神様を喜ばせるような隣人への奉仕をしたりするために、どのくらいの時間を使っているでしょうか。消費税の計算でいえば、1日24時間生きたならば、その10%、2.4時間は神様に捧げるべきということになります。10%は高すぎるとしても、せめて5%、3%くらいでも、神様から頂いたものを神様にお返ししているでしょうか。

 現実問題としては、1日に10分祈るのでも難しい、週に1度のミサに出るのも負担だと感じる場合が多いのではないかと思います。納税は当然のことと思っても、神様に自分をお捧げすることはなかなか当然と思えないのは残念なことです。なぜなら、国や地方公共団体がさまざまなサービスを提供して生活を支えてくれる以上に、神様は豊かな恵みをわたしたちに提供し、人生を支えてくださっているからです。大地や太陽、雨、木々や草花、生き物たち、今日一日を生きるためのわたしたちの命、すべては神様が提供してくださっているもの。これだけのものを頂きながら、自分たちからは一銭も差し出さないというのは、あまりにもケチな考えではないでしょうか。

 税金と違って、祈ったり奉仕したりしなくても、神様からのサービスがストップすることはありません。ですが、もし神様のために自分の時間、自分の人生の一部を捧げるなら、神様の愛に心を満たされ、隣人と愛し合いながら、より幸せな人生を生きられるようになるでしょう。どう考えても、神様のものは神様にお返し他方がよいのです。神様から頂いたものを、惜しみなく神様にお返しすることができるように、どんなに忙しいときでも祈りの時間、奉仕の時間をきちんととれるように、心を合わせて祈りましょう。