バイブル・エッセイ(929)神に捧げる

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神に捧げる

「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。」(マタイ21:33-43)

 ぶどう園で働くよう命じられた二人の兄弟のたとえ話に続いて、今日は、ぶどう園で働く農夫たちのたとえ話が読まれました。「これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう」と言った農夫たちは、神の一人子イエスを殺して神の恵みを独占しようとする律法学者たちの姿と重なります。律法学者たちは、自分たちの富や権威が神から与えられたものであることを忘れ、すべてを自分のものにしようとしたのです。

 収穫の一部を神にお捧げするという習慣は、世界中の多くの宗教で見られます。わたしたちもミサの中で、「神よ、あなたは万物の作り主、ここに供えるパンはあなたから頂いたもの。大地の恵み、労働の実り、わたしたちの命の糧となるものです」と言って、神にパンを捧げ、同じようにしてぶどう酒も捧げます。収穫の一部を神に捧げることによって、すべては神から頂いたものであることを思い起こすのです。神から頂いたものである以上、自分たちの勝手に使うことはできません。自然の恵みがいつまでも絶えることのないよう大地を守り、恵みを兄弟姉妹と分かち合いながら生きてゆくこと。すべてを神のみ旨のままに用いることが、わたしたちに与えられた使命なのです。

 そのことを忘れ、すべてを自分の努力で手に入れたものだと思い込むとき、わたしたちは大地の恵みを必要以上にかき集め、すべてを独り占めにするようになります。産業社会が発展し、神への捧げものの習慣が廃れるとともに、地球環境が破壊され、貧富の差が広がっていったのはある意味で当然と言えるでしょう。教皇フランシスコは、回勅『ラウダート・シ』の中で、すべての被造物の中に神の神秘を見ること、すべての命のうちに神を見出し、大切に守ることを呼びかけました。パンにしても、ぶどう酒にしても、すべての被造物のうちには神の命が宿っており、すべての被造物は神からわたしたちに与えられたものなのです。そのことを思い出すとき、すべての被造物に対するわたしたちの態度は変わるでしょう。すべての被造物を神からの頂きものとして大切に守り、感謝して使うこと。それこそ、人間のあるべき姿であり、ぶどう園を預かった農夫たちに与えられた使命なのです。

 被造物の中には、わたしたち自身も入っていることを忘れないようにしましょう。わたしたちの命も神様から頂いたもの。パンやぶどう酒をお捧げするとき、わたしたちは自分の命、自分の生涯も捧げものとして神の前に置くのです。神様から頂いたものである以上、自分の勝手に使うことはできません。すべての思惑を脇に置き、「わたしをあなたのみ旨のままにお使いください」と祈り、与えられた恵みを人々と分かち合うこと。それこそ、人間のあるべき姿なのです。

 アッシジのフランシスコの記念日でもある今日、自分自身の命も含めて、神様から頂いたすべての恵みを神様の前にお捧げしましょう。すべては神様から頂いたものであることを思い出し、すべてを神様のみ旨のままに使ってゆくことができますように。

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