バイブル・エッセイ(772)神のものは神に


神のものは神に
 ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(マタイ22:15-21)
 税金を納めるべきかというファリサイ派の人々からの問いに、イエスは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と答えました。皇帝の刻印が押されている銀貨は皇帝のものだから、税金を納めることは問題がないということでしょう。ただし、「神のものは神に返しなさい」とイエスは言います。「神のもの」とは一体何でしょう。どこかに、神の刻印が押されているものがあるのでしょうか。
 神の刻印を押された「神のもの」、それはわたしたち人間だと思います。もちろん、牛の焼き印のように、おでことか腕に刻印が押されているということではありません。神の似姿として創造されたわたしたちの心に、はっきりと神の刻印が押されているのです。それは、自分で自分の心を確かめてみればすぐにわかることです。どんな人でも、心の一番奥深いところには愛が宿っています。苦しんでいる人、家族や友だちを見たときに、放っておくことができない。自分だけが幸せになるのは心苦しい。できることなら、すべての人と仲よく、幸せに暮らしてゆきたい。そのようなやさしい気持ちが、どんな人でも心の奥底に必ず宿っているのです。それこそ、わたしたちが神の子であることの何よりの証し、神によって押された刻印です。神の子であるわたしたちの心には、必ず神の愛が宿っているのです。その愛に導かれて生きることで、わたしたちは自分らしく、幸せに生きることができます。「神のもの」であるわたしたちの心は、わたしたちの生涯は神に捧げられ、神に返されてたときにこそ救われると言ってもいいでしょう。
 ですがわたしたちは、ときに自分の人生を地上の皇帝に捧げてしまいがちです。富や権力、栄光を求め、そのために生きるとき、わたしたちは神のものを皇帝に返しているのです。富や権力、栄光を手に入れることによって、神のものを地上のものに替え、自分の欲望を満たすために使ってしまっているといってもいいかもしれません。神のものを皇帝に返したり、自分自身のために横領したりしてしまっては、神がお喜びになるはずがありません。皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返すべきなのです。
 皇帝のものを皇帝に返し、神のものを神に返すとき、わたしたちの手元には何も残りません。ですが、空っぽになったわたしたちの心に、神様はあふれんばかりの愛を注いで下さいます。それこそが、神の子の救いであり、幸せだと言っていいでしょう。わたしたちの使命は、溜め込むことではなく、お返しすること。心を空にして、神の愛を頂くとき、わたしたちは幸せになる。そのことを忘れないようにしたいと思います。