バイブル・エッセイ(351)奇跡を生む母の愛


奇跡を生む母の愛
 エスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。(ルカ7:11-17)
 夫に先立たれ、頼りにしていた一人息子まで失った母の悲しみ、それは想像することさえできないほどです。きっと、たくさんの町の人たちに支えられながら、ようやく棺のそばに立っていたのでしょう。悲しみに打ちひしがれた母の姿を見て、イエスは心を深く動かされ、死者を蘇らせるという奇跡を行いました。母の愛が生んだ奇跡と言っていいでしょう。
 母の愛が奇跡を生む。そのようなことが確かにあると思います。以前、あるお母さんからこんな話を聞きました。そのお母さんは、ある種の障害を持った子どものお母さんでした。その子を妊娠しているあいだに、お母さんは医師から、子どもに障害がある可能性が高いことを告げられたそうです。神の御旨のままにと思いながらも、そのお母さんはとても大きなショックを受けたとのことでした。その子を本当に育てられるか、自信がなかったのです。
 生まれてきた子どもには、医師が告げたとおり障害がありました。そのために、その子は生まれてすぐ手術を受けなければならなくなったそうです。手術のあいだお母さんは一心不乱に祈り続けました。「この子の代わりに、わたしの命を取って下さい」とさえ心の底から願ったそうです。お母さんの祈りと医師たちの努力のかいあって、神様はその子どもの命を助けて下さいました。そのときお母さんは、「何があってもこのこの命を守り抜く」と固く決意したそうです。子どもは無事に育ち、もうじき20歳を迎えるとのことでした。
 この話を聞いたとき、わたしは涙をこらえることができませんでした。これは、まさにお母さんの愛が生んだ奇跡だと思ったのです。子どもの手術がうまくいったことも奇跡だし、その子が重い障害にも関わらず元気に育ったということも奇跡のように感じられました。そのすべては、自分の命さえ省みることなく子を思う、母の愛が生んだものだったのです。
 人間の愛のなかで、もっとも無私で、もっとも力強く、もっとも神の愛に近い愛は、子どもを思う母の愛かもしれません。息子を思う母の愛によって、イエスの心を満たした神の愛がこの世界にあふれ出し、奇跡を引き起こしたとしても、何の不思議もないように思います。
 今週わたしたちは、「イエスのみ心」と「マリアのみ心」を祝いました。まさに、神の愛と母の愛の記念日を祝ったのです。マリアは、すべての母がそうであるように、子どもであるわたしたちを優しく見守り、もしわたしたちが病気になったり、罪に陥ったりすれば深く悲しまれます。その悲しみが、イエスのみ心を動かし、神の愛が地上に降り注ぐ。「イエスのみ心」と「マリアのみ心」の関係は、そのようなものではないかとも想像されます。わたしたちを育ててくれた母の愛、イエスの母であり、わたしたちの母でもあるマリアの愛に心から感謝しながら、神の恵みをかみしめたいと思います。
※写真…布引ハーブ園にて。