バイブル・エッセイ(783)いと高き方の力


いと高き方の力
天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。(ルカ1:26-38)
こんなわたしが救い主の母になれるのでしょうかと問うマリアに、天使は「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」と語りかけました。「わたしにこんなことができるのか」などと考える必要はない。ただ、神様の言葉を信じて受け入れれば、あとのことはすべて神様がしてくださるということです。マリアは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えました。こうして、一人のおとめを通して、神様の大いなる救いの業が始まったのです。
 もしそれが神のみ旨ならば、「わたしにはそんなことをする力はない」というのは断る理由になりません。もしそれが本当に神のみ旨ならば、使命を成し遂げるために必要な力は、すべて神様が与えてくださるからです。旧約の時代に、神様はユダヤの民を救いに出かけるのを拒もうとするモーセに不思議な力を与え、若者に過ぎないからといって王になるのを拒もうとしたソロモンに知恵を与えました。それと同じことが、現代でも起こるのです。
 たとえば、先日、宇部教会の子どもクリスマスに72人もの子どもたちが集まり、保護者をあせて百数十人の若い人たちでこの聖堂が溢れました。それも、教会に初めてやって来た人、これまでほとんど教会とかかわりがなかった人たちがほとんどです。これは奇跡的なことだと言っていいでしょう。幼稚園との緊密な連携やオルガンコンサート、イルミネーションに来られた方々への呼びかけなど地道な努力が実を結んだということもあるでしょうが、それらすべての努力を大きく包み込む「いと高き方の力」が働いたとしか考えられません。「わたしたちに若者を教会に集める力などない」と諦め、何もしなかったなら、このようなことは決して起こらなかったはずです。
 同じ日に、熊本の仮設住宅でも奇跡が起こりました。宇部・小野田の信徒たちが力を合わせ、心を一つにして取り組んだ結果、今年も400件余りの仮設住宅にクリスマス・プレゼントを届けることができたのです。ある人はクッキーを焼き、ある人はカードを書き、ある人はパッキングを手伝い、ほとんどの人が惜しみなく募金に協力した結果、仮設住宅で暮らす1000人近い皆さんにクリスマスの喜びを届けることができたのです。わたしも戸別訪問をしましたが、独り暮らしのお年寄りや、小さな子どもたち、たくさんの方々が、ほんとうにうれしそうな顔でプレゼントを受け取ってくださいました。それほど規模の大きくない3つの教会にこんなことができたというのは、ほとんど奇跡だと言っていいでしょう。「高齢化が進むこの教会に、そんなことをする力はない」と諦めていたら、このようなことは決して起こらなかったはずです。一人一人が与えられた使命を受け入れ、全力を尽くしたとき、そこに「いと高き方の力」が働いたのです。
「お言葉どおりになりますように」と神様からの使命を受け入れるとき、「聖霊が降り、いと高き方の力がわたしたちを包み」ます。わたしたちの心にイエス・キリストが生まれ、ありえないと思えることが次々と実現してゆくのです。聖母と心を合わせ、これからもみ旨のままに生きてゆくことができるようご一緒に祈りましょう。