バイブル・エッセイ(947)救いを生きる

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救いを生きる

 ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。(ヨハネ1;35-42)

 自分の後についてきたヨハネの弟子たちに、イエスは「来なさい。そうすれば分かる」と言いました。「あなたたちが求めているものが何なのか、わたしがどこでどんな暮らしをしているのか、ついて来れば分かる」ということでしょう。イエスがどんな暮らしをしていていたかを思い出せば、イエスが誰なのか分かる。イエスが誰なのか分かれば、人間の救いとは何なのか、どのように生きれば救いに到達できるのかが分かる。「来なさい。そうすれば分かる」という言葉は、わたしたちにそのことを気づかせてくれます。

 この箇所にちなんで、多くの修道会は 、入会希望者のために“Come and See”(「来なさい。そうすれば分かる」という意味)と呼ばれる期間を設けています。修道生活に憧れる人たちに、修道生活を実際に体験してもらうための期間です。一緒に生活することによって、修道者たちの外での活動を見ただけでは分からないことが分かるようになる。それが分かったところで、修道会に本当に入りたいかどうかを決めなさいということです。

 外から見るのと、実際にやってみるのでは大違いということは何にでも言えることだと思いますが、特に修道生活はその落差が大きいかもしれません。例えば、マザー・テレサの修道会の生活。自らも貧しく生きながら、この世界の最も貧しい人たちに奉仕するという美しい生き方に憧れ、マザーのほほ笑みに魅了されて、自分も同じように生きられたらと願う人はたくさんいます。ですが、「貧しさを生き、貧しい人々に奉仕する」ということは、外で見ているほど簡単なことではないのです。

 わたしはマザーの始めた男子の修道会で “Come and See”をさせてもらったことがありますが、たとえば当時、食事に肉(のかけら)が出るのは週に2回だけでした。食べ盛りの若者には、なかなか辛いことだと思います。個室はなく、いつもみんなと一緒の生活。酷熱のインドですが、扇風機さえ使えませんでした。それが一生続くと思えば、しり込みする人が出てくるのも当然でしょう。てすが、マザー・テレサとそのシスターたちの美しさ、貧しい人々の苦しみに徹底的に寄り添う愛、顔に浮かんだ静かな喜びや安らぎ、落ち着きは、そのような厳しい生活の中からこそ生まれて来るものなのです。

 イエスの後についてゆきたい、イエスのように生きて救いに与りたいと願うなら、人々の前で颯爽と活躍するイエスの姿だけでなく、イエスの生活を見る必要があります。大切なのは、イエスが何をしたかというより、むしろ、普段どのように生活していたかということなのです。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(マタ8:20)というイエスの言葉から、わたしたちはその生活ぶりを想像できるでしょう。ベッドもなく地面に横たわり、最小限のものを食べ、一切の贅沢はせず、ただひたすら神のため、人々のために捧げつくす生涯。それこそがイエスの生涯であり、わたしたちに示された救いへの道なのです。そのまま真似ることはできないにしても、自分なりのやり方で、イエスの生き方に少しでも近づけるよう心がけたいと思います。イエスと共に生き、イエスと共に歩んで、「神の国」、永遠の命、ゆるぎない人生の幸せに到達できるよう祈りましょう。

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