バイブル・エッセイ(950)伝える幸せ

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伝える幸せ

(そのとき、イエスは)会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。(マルコ1:29-39)

 人里離れたところに行き、一人で祈っていたイエス。戻ってきて弟子たちに、「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する」と告げます。「そのためにわたしは出て来た」のだからと言うのです。人里離れたところでただ神のみと向かい合う深い祈りの中で、イエスにその道が示されたと考えていいでしょう。一ヵ所にとどまって、待っているべきではない。苦しみの中で神の愛を待ち望む人々のところに出かけてゆく。一人でも多くの人に神の愛を届け、神の国への道を開く。それこそ、神の子の使命であり、福音宣教者のあるべき姿だということです。

 パウロはコリントの信徒への手紙の中で、「福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです」と記しています。イエスから福音宣教の使命を与えられたパウロも、イエスと同じ福音宣教の情熱に駆られていました。神の愛を知らず、闇の中で苦しんでいる人たちがいるなら、その人たちに福音を伝えずにはいられない。その人たちを闇の中に放って置くならわたしは不幸だ。パウロはそう感じているのです。

 わたしもいま、コロナ禍の中にあってパウロの言葉の意味が少し分かるような気がしています。宣教のためにどこかに出かけたい、一人でも多くの人に神の愛を伝えたいという気持ちはあるのに、それができない。つい自分のことや、自分に任された教会のことばかり考え、不安に駆られて暗い気持ちになる。そんなことが多いからです。「福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです」というのは、まったく本当だと思います。苦しんでいる人たちのことを忘れ、福音宣教のことを忘れて自分のことばかり考えるようになると、わたしたちは途端に不幸になってしまうのです。

 そんなときわたしは、「いまこの状況の中で自分にできることはないか」と必死で考え、神に問いかけるようにしています。心を開いて目を神さまに、そして助けを求めている人々に向けるのです。そうすると、できることが次々に見つかります。例えば、SNSを利用したオンラインでの宣教。これは、直接会ってする宣教とは比較になりませんが、それでもやらないよりはましだとわたしは思っています。いまこの時期に一人でも多くの人とつながり、種を蒔いておけば、いつか実際に会える日が来たとき必ず何かの実りがあるでしょう。他にも、手紙を書いたり、電話をかけたり、Zoomやラインで対話したり、やれることはいくらでもあります。外に出て、掲示物をこまめに張り替えたり、庭の手入れをしたりすることだって立派な福音宣教です。教会の庭がいつもきれいで、花壇に花が咲いていれば、それだけでもご近所の人たちに福音の喜びを伝えることできるでしょう。

 教会に限りません。わたしがしていることは、皆さん一人ひとりもできることなのです。家に庭がなければ、ご近所の掃除をしてもいいかもしれないし、清掃などのボランティア活動に参加してもいいかもしれません。いまこの状況にあってもできる福音宣教はいくらでもあるのです。何でもいいので、ともかく福音宣教を始めましょう。そうすれば、心に喜びと力がみなぎり始めるのを感じるはずです。福音宣教は愛の実践であり、愛を実践するとき、わたしたちの心は天国の喜び、聖霊の力で満たされるのです。イエスと共に宣教の旅に出かけられるよう、そのための力を神に願って祈りましょう。